
同床異夢だったロシア・ベラルーシ連合国家
ルカシェンコ氏が君臨しているベラルーシという国の軌跡を考える上で、やはり最重要な要因がロシアとの関係である。ロシア人・ウクライナ人・ベラルーシ人は、東スラヴ系の3民族として、歴史・言語・文化などの面で近い関係にある。しかし、ソ連解体後、ウクライナがほぼ一貫してロシアと一線を画した独自の国造りを進めてきたのに対し、ベラルーシは対ロシア統合路線を歩み、対照的であった。
1999年12月、ロシアとベラルーシは「連合国家」を創設する旨の条約を結び、これに沿って経済・国家統合を進めていくことになった。しかし、この条約は特異な状況下で成立したものだった。当時のロシアでは、健康問題を抱えていたボリス・エリツィン大統領の政権が低空飛行を続け、どうにかして国民の歓心を買い、あわよくばエリツィン政権の延命にも繋げようということで、ベラルーシとの国家統合が発案された。対するベラルーシの側では、当時まだ40代でエネルギッシュだったルカシェンコ大統領が、小国のトップの座には飽き足らず、ロシア・ベラルーシ統一国家を樹立して自らがクレムリンの玉座に収まるという野望をたぎらせ、対ロシア統合にのめり込んでいた。お互いがそれぞれに異なる政治的な打算で動いていたのである。
しかし、条約は発案当初こそ大胆な国家統合を想定していたものの、交渉段階で事情が一変する。1999年8月にウラジーミル・プーチン氏がロシア首相に就任すると、テロと戦う強力なリーダーというイメージを獲得し、押しも押されもせぬエリツィンの後継者候補に浮上したのだ。結局、1999年12月8日にエリツィンはルカシェンコとの間で連合国家創設条約に調印こそしたものの、条約はすっかり空文化し、しかもエリツィンはそのわずか23日後に辞任してしまった。エリツィン辞任を受け、プーチンは大統領代行に就き、選挙を経て2000年5月に正式にロシア大統領に就任した。
今では想像しづらいが、当初プーチンは開明的な改革者というイメージを振りまいて登場した。同盟国ベラルーシを切り捨てることはなかったものの、両国統合の土台は健全な経済関係だというのが当時のプーチンの持論で、市場経済化の遅れたベラルーシをロシアが改革指導する構図となった。
以降、二国間関係の主導権は完全にプーチンが握ることになる。ルカシェンコにとっては、ロシア政界進出の夢は絶たれ、ロシアから以前ほど寛大な経済支援は期待できず、経済改革の宿題を課せられるという悪夢のような展開だ。ベラルーシ国内でもプーチン人気が高まり、かつてのようにソ連への郷愁ゆえではなく、改革のために対ロシア統合に期待する市民も現れた。こうしたことから、ルカシェンコの対ロシア統合熱は一気に低下し、ベラルーシという一国一城の主としての地位を守り抜くという路線に転じていった。
前回のウクライナ危機もルカシェンコに味方した
時とともに強権の度合いを強め、市場経済導入にも後ろ向きなルカシェンコは、いつしか「欧州最後の独裁者」と呼ばれるようになり、ベラルーシと欧米の関係は緊張をはらんだものとなった。2005年1月には、米国務長官就任に当たって議会で演説を行ったコンドリーザ・ライス氏が、世界にいまだ残る「暴政の前哨」として、ベラルーシを含む6つの国を名指しで批難したこともあった。
ところが、ルカシェンコの強権政治自体は一貫していても、ベラルーシ国内における政権の求心力や、欧米のベラルーシへの風当たりは、国際情勢の変化を受けて変化することがある。その典型例が、2015年のベラルーシ大統領選をめぐる状況だった。この選挙に先立って、2014年に前回のウクライナ危機(ウクライナの政変、それを受けたロシアによるクリミア併合、ロシアの介入によるドンバス紛争)が発生し、これが選挙でのルカシェンコ圧勝へと繋がったのである。
第二次大戦の独ソ戦で壊滅的な被害を受けたベラルーシの国民は、「戦争さえなければ」というメンタリティが染み付いている。平和でさえあれば多少の辛苦は耐え忍ぶ傾向があり、これがルカシェンコ政権存立の一因にもなっている。そうした中、お隣のウクライナ・ドンバス地方で本物の戦争が発生した。東スラヴ人同士の兄弟愛を信じていたベラルーシ国民にとって、ロシアとウクライナが間接的とはいえ戦火を交えるような事態は、まさに悪夢である。ウクライナ危機後、ベラルーシ社会は保守化し、ルカシェンコ体制や、ロシアを盟主とする地域秩序を、これまで以上に支持するようになった。

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