戦後80年、これまで「シベリア抑留」については数多くの書籍が刊行されてきた。しかし、より多くの日本人が体験したはずの「南方抑留」については、一般向けの本が非常に少ない。はたして、それはなぜなのか。
今年7月に『南方抑留:日本軍兵士、もう一つの悲劇』を刊行した林英一さん(二松学舎大学准教授)と、『日本軍兵士』『続・日本軍兵士』がベストセラーになっている吉田裕さん(一橋大学名誉教授)が、抑留の実態をめぐって対談した。【構成:梶原麻衣子】
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「残留日本兵」から「抑留日本兵」へ
林 今日はよろしくお願いいたします。大変緊張しております。
吉田 僕は林さんの博士論文の審査員だったからね(笑)。
林 落第点を付けられないといいのですが(笑)。
吉田 さっそくですが、林さんはこれまで、残留日本兵の研究をされてきました。残留日本兵とは、終戦後も自分の意志で東南アジアなどの現地に残った兵士たちのことですが、今回の『南方抑留』では、自らの意志に反して抑留された兵士たち、しかもジャワやシンガポール、ラバウルなど東南アジアや南太平洋に抑留され、アメリカ、イギリス、オーストラリアなどの戦勝国側から労働を強いられた人たちに焦点をあてていますね。
林 私が残留日本兵に興味を持ったのは、大学2年生、20歳の夏休みにインドネシアに行き、元残留日本兵の生き残りの方にお話を直に伺ったのがきっかけでした。以来、私の研究の原点にはその頃に当事者にお会いして話を聞いた体験があります。
本書の第1章にインドネシア最大の港湾タンジュン・プリオクの作業隊に送られた抑留日本兵として登場する陸軍主計中尉だった大庭定男さんとは、バンドン作業隊の抑留日本兵だった陸軍薬剤大尉の小山芳雄さんから紹介されて知り合いました。大庭さんは、私が当時聞き取りをしていた元残留日本兵の方と、戦時中同じ旅団司令部に勤務しており、その方のことをよく覚えていました。その後も日本に帰国した元残留日本兵やインドネシア義勇軍の教官だった方のもとに連れて行ってくださり、いろいろなことを教えていただきました。
最近になって当時の録音テープを聞き直していたところ、大庭さんと小山さんが興味深いやり取りをしていたことに気づきました。
小山さんがタンジュン・プリオクは「マラリアの蚊の生息地だった」と言うのに、大庭さんは「(タンジュン・プリオクでは)イギリス軍が空中からDDT(粉末状の消毒薬)を撒き、蚊帳もあったから新しくマラリアにかかる人は出なかった」など、一体何の話だろうと思っていたら、抑留されていた頃の話だったんです。重たいトランクを船室まで届ける、船の石炭庫に石炭を積み込む、100キロの米袋を担ぐなどの重労働で「ジャワ最悪」と恐れられたタンジュン・プリオク作業隊ですが、南方戦線での戦病第1位だったマラリアへの対策は行き届いていたようです。
さらに、兵士、抑留経験者や引き揚げ体験に関する資料を集めた帰還者たちの記憶ミュージアム(平和祈念展示資料館)の館長である増田弘先生が2024年9月に「南方抑留・残留・帰還」というテーマでシンポジウムを開催され、私も講演させていただきました。その後、私のゼミと同ミュージアムが協働する形で2025年10月に企画展、11月に合同展を行うことになり、その準備の過程で「これまで残留日本兵の研究ばかりしてきたけれど、残留といわば密接不可分な抑留のことは、いままであまり考えたことがなかったな」と気づいたのです。
増田先生は2019年に『南方からの帰還:日本軍兵士の抑留と復員』(慶應義塾大学出版会)を出版されており、こちらは連合国側の一次資料、外交文書を使って抑留の実態に迫っています。一方、私は吉田先生の『日本軍兵士』(中公新書)に触発されて、まさに等身大の兵士たちの目線で抑留の実態に迫りたいと考えました。
「日記」から兵士たちの感情の起伏を読み取る
吉田 『南方抑留』は兵士たちが書いてきた日記を読み込んでいます。日記や手紙などの一人称で書かれた史料はエゴ・ドキュメントと呼ばれますが、公文書や外交文書などの一次資料と比べると事実関係などが不確かなところがあり、記録としては価値が劣るとかつては見られてきました。しかし日本では終戦時に公文書が徹底的に焼却されてしまったうえに、残った記録の公開も進まない状況があったので、伊藤隆さん(東大名誉教授)に代表されるグループが政治家や官僚、軍人の日記の発掘をされて、それに基づいて政治史的な分析をしていく流れもできました。
最近では、エゴ・ドキュメントは、書き手の感情の揺らぎや自己変容を遂げていく過程などが読み取れる資料として、歴史研究に新しい角度から光を当てるものとして評価されています。本書もそうした狙いがあったんですか。
林 確かに、公文書に比べれば日記は個人的なものであり、資料的価値が低いものとされてきたのですが、敗戦によって武器だけでなく記録をも失った抑留者の実態を、当事者の目線で理解するうえではすごく大事な資料だと思っています。学生たちと博物館などに行くことも多いのですが、やはり率直な感情が吐露されている手紙などを読むと学生も感動して、興味を抱くことが多いのです。
また、私自身、卒業論文が残留日本兵の日記を使った研究だったこともあり、今回も、兵士たちの頭の中というか、何を考え、状況をどう見ていたのかがわかるのではないかと思い、日本史学では「自己語り史料」などとも呼ばれるエゴ・ドキュメントを中心に据えています。
例えば大庭さんの日記も、ある時には「帰国後も祖国再建に資する存在でありたい」と勇ましいことを言っていたかと思えば、まもなく帰国できるという期待を何度も裏切られたことで「絶望のどん底に投げ込まれた」と悲観的になったりと、感情の起伏がわかり、すごく興味深いんです。
私たちは抑留を解かれて帰国したという結末を知ったうえでこれらの資料を読んでいますが、当事者からすれば、「いつ帰れるのか」「本当に帰国が叶うのか」と不安でいっぱいなのです。実際、帰国予定が繰り返し延期になるなど、不安定な状態に置かれている。日記には、そうした先の見えない状況で抑留者たちが何を考え、感じていたのかがその当時考えたままにつづられています。
戦後だいぶ経ってからの抑留経験者同士の会話を聞いていても、「あなたは何年何月に帰国したのですか」「私より一カ月早いですね」といったやり取りが多いのですが、これは当時いかに帰国を今か今かと待ち詫びていたかということの証左でしょう。会田雄次も『アーロン収容所』に〈帰還はすべてを希望にする。抑留はすべてを絶望にする〉と書いています。実際に帰国が延期になり「今回もまた帰国できなかった」という失望から逃亡したり、自殺した人たちもいました。それほど彼らにとって「いつ日本に帰れるのか」は切実な問いだったのです。
なぜ「南方抑留」はシベリア抑留の陰に隠れてきたのか?
吉田 抑留と言えば「シベリア抑留」に関しては資料も先行研究も多いし、一般にも知られていますが、南方抑留はそうではありませんでした。『南方抑留』があまり知られていないのはなぜなのでしょうか。
林 抑留されていた期間で言うと、シベリアの場合は最長11年、南方抑留は長くても2年半。人数で言えば、シベリアでは約60万人が抑留されたと言われています。南方抑留はいわゆるJSP(降伏日本軍人)と呼ばれるイギリスの管理下に置かれた日本軍人らが約70万人、それ以外のPOW(捕虜)として米軍の管理下に置かれた軍人や軍属などを含めると100万人を超えるとも言われていますから、シベリア抑留より人数は多いのです。
しかし、先行研究という点では、シベリア抑留と比べ南方抑留に関する論文などは少ないです。シベリア抑留の場合にはロシア(ソ連)側の資料の解明も進んでいるのですが、南方抑留については抑留が行われた場所が多くの島々を含んでおり、管理に当たった国もイギリス、オーストラリア、アメリカなどと多岐にわたっています。関係国が多いことによって、資料が散在しているなど研究の焦点を当てづらかった可能性はあります。
ただ抑留者の立場で考えると、おそらく最も大きな要因は、東南アジアでは日本側は「加害者」でもあったということではないかと思います。
シベリア抑留の場合は中国大陸から無理やりソ連軍に連れ去られ、極寒の地で働かされたという被害体験や悲劇性を強調しやすい面がありますが、南方抑留の場合は1942年に東南アジアを占領して、終戦までの3年半にわたって現地を支配しており、その意味では「加害者」でもありました。それが一転、終戦後は抑留の「被害者」となるという両義的な立場に置かれ、当事者としても語りづらかった側面があるのかもしれません。
「歴史対話」の難しさと可能性
吉田 抑留生活の実態については、例えば第3章「コカイン収容所」では、ビルマ(現ミャンマー)のモパリン収容所に抑留された第18師団(菊兵団)歩兵第55連隊出身の井上咸陸軍中尉の日記が引用されています。戦争によって荒れ果てた線路を復旧し、道路と機械を補修し、石砕作業に従事して細石を製造することを課せられていたのですが、井上は「全く目まいするような暑さの石切場」「蟻のような黒光りする肌を寄せ合って、兵隊たちは黙々と石と格闘している」と書いています。
林 同じ連隊出身の吉田悟陸軍軍曹も、灼熱の太陽を岩石が照り返す炎天下の作業場で、痛めた手首を使ってハンマーを打つのは「地獄責め」だったと回想しています。
吉田 こうした労働を強要されることで被害者意識を持った一方、本書で引用されている日記からは、加害性の自覚や、反省が深まっていく様子はあまり読み取れません。
林 加害性についてまったく触れていないわけではないのですが、確かに、加害体験に対する認識の深まりを感じさせる記述はあまり多くはありませんでした。例えば各連合国の軍事法廷でBC級戦犯として裁かれた人たちに対しても、基本的には犠牲者扱いで、「あんなに善人だった人が、自分たちの身代わりとして処罰を受けた」と捉えている面があります。
抑留という被害体験が免罪符となり、加害体験に向き合う意識を弱めてしまった面もあるのかもしれません。
吉田 最終章「歴史対話」では、抑留された日本人と、抑留をする側だったイギリス人たちとの対話に触れていてすごく面白かった。例えば会田は『アーロン収容所』で被害体験やイギリス人から与えられた屈辱について綴っていますが、イギリスのダラム大学でフランス文学を教えていたルイ・アレンはこれをご都合主義的な被害者像であるなどと批判したことが紹介されています。両者の間で論争が起きていたことを初めて知ったので、大変興味深く読みました。
林 確かにアレンの云うように、加害の歴史を切り離して抑留の被害だけを語ることは、まさに「木を見て森を見ず」になりかねません。とはいえ、会田が体験した抑留体験の重みも無視できない。両者の論争が、互いに自己正当化に走る袋小路に入ってしまったことは、歴史対話の難しさを表していると思います。
一方で、終章の最後に書いたように、大庭さんとアレンとの間には「和解」が成立した。たとえ互いの歴史体験の間に大きな懸隔があっても、異なる歴史を背負った相手の立場を想像し、共感することは可能だということでしょう。
だからこそ南方抑留を学ぶ意義があるのではないかと思います。戦争と戦後を連続に捉える「貫戦史」としての観点や、現地社会への責任という視点も含めて、本書があらためて南方抑留というテーマを考えるきっかけになれば幸いです。
※この対談は、『南方抑留:日本軍兵士、もう一つの悲劇』(林英一著、新潮選書)刊行を機に行われたものです。
- ◎吉田裕(よしだ・ゆたか)
1954(昭和29)年生まれ。東京教育大学文学部卒。一橋大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。一橋大学社会学部助手、講師、助教授、教授を経て、一橋大学大学院社会学研究科教授。現在は一橋大学名誉教授、東京大空襲・戦災資料センター館長。専攻は日本近現代軍事史、日本近現代政治史。著書に『昭和天皇の終戦史』(岩波新書)、『日本人の戦争観』(岩波現代文庫)、『アジア・太平洋戦争』(岩波新書)、『現代歴史学と軍事史研究』(校倉書房)。『日本軍兵士:アジア・太平洋戦争の現実』(中公新書)で第30回アジア・太平洋賞特別賞、新書大賞を受賞。2025年、『続・日本軍兵士:帝国陸海軍の現実』(中公新書)を刊行。
- ◎林英一(はやし・えいいち)
1984年、三重県生まれ。慶應義塾大学総合政策学部卒。慶應義塾大学大学院経済学研究科後期博士課程単位取得退学。一橋大学博士(社会学)。現在、二松学舎大学文学部歴史文化学科准教授。インドネシア残留日本兵の研究で日本学術振興会育志賞受賞。著書に『残留日本兵の真実』『東部ジャワの日本人部隊』(ともに作品社)、『皇軍兵士とインドネシア独立戦争』(吉川弘文館)、『残留日本兵』(中公新書)、『戦犯の孫』(新潮新書)、『残留兵士の群像』(新曜社)など。2025年、『南方抑留:日本軍兵士、もう一つの悲劇』(新潮選書)を刊行。
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