GLP-1受容体作動薬(以下、GLP-1薬)の濫用が社会問題化している。8月3日放送のフジテレビ『Mr.サンデー』は、この問題を特集し、手軽に痩せたいと考える若者が、米製薬大手イーライ・リリー(以下、リリー)の販売するGLP-1薬チルゼパチド(商品名マンジャロ)を不適切に使用している実態を報じた。番組では「3カ月で13キロ減」といった極端な減量例が紹介され、さらに「栄養不足は仕方ない」と語る若者の姿勢を取り上げ、安全性への懸念を強調した。
続いて、8月20日には、FNNプライムオンラインも「もはや貧困国レベルに…世界も驚く低体重の日本人女性」と題したニュースを配信し、GLP-1薬を用いた過度なダイエットの危険性を改めて警告した。
こうした報道の影響もあってか、ネット上では「若い女性が本来は病気治療薬であるマンジャロを使って無理に痩せようとしている」などの記事やブログが散見される。結果として、GLP-1薬を適正使用することで得られる医学的メリットよりも、「痩せ薬」としての負の側面が強調され、日本でのGLP-1薬批判が高まっている。
この状況について、米国ボストン在住の大西睦子医師は、「日本の報道はバランスを欠き、ネガティブキャンペーンのように映ります」と言う。日本と同様に、米国でもGLP-1薬の使用を巡って社会的な議論が巻き起こっているが、その様相は大きく異なっている。
セリーナ・ウィリアムズの使用公表が話題に
8月21日、ウォール・ストリート・ジャーナルは“Serena Williams Is the Surprising New Face of Weight-Loss Drugs”という記事を掲載した。この記事は、女子テニス界のレジェンド、セリーナ・ウィリアムズが、出産後の体重管理にGLP-1薬を用いたと公表したことが、米国で大きな反響を呼んだことを紹介している。
オンライン診療企業ローの広告で明かされたこの告白は、著名人による使用が「秘密」とされてきた従来の状況を打ち破り、社会的議論を喚起する契機となった。一方で、営利企業であるローが「肥満は治療対象」と強調し、GLP-1薬の販売拡大を狙う姿勢も見て取れる。さらに、痩身目的での濫用は、本来治療に必要な患者への供給不足を招きかねず、同時に「痩せねばならない」という社会的圧力を強める懸念も指摘されている。
この記事は、GLP-1薬の功罪を正面から議論した秀逸な内容だが、米国メディアをフォローしていると、この薬が既に市民権を得ており、社会の中でどのように位置づけ、活用していくかについて具体的な議論が進んでいることがわかる。
例えば、8月7日のニューヨーク・タイムズの記事“Ozempic Is Shrinking Appetites. Restaurants Are Shrinking the Food.”では、米国でGLP-1薬の利用が広がる中、食欲減退に対応して外食産業が小容量メニューを導入していることが紹介されている。ニューヨークのレストランではミニバーガーや小サイズの酒類を提供し、バーやスムージーチェーンも専用メニューを展開しているそうだ。
5月12日のニューヨーク・タイムズの記事“Group Dining on Ozempic? It’s Complicated.”では、GLP-1薬の使用拡大に伴い、米国の外食マナーや習慣が変わりつつある状況が報じられている。食欲抑制の影響で料理を残す人が増え、友人同士のシェアや小皿料理の需要が高まる一方、残すことへの気まずさや会計の公平性といった新たな課題も生じているという。しかし同時に、「食べ過ぎない安心感」や飲酒量の減少といった利点も指摘されており、こうした変化は食文化全体の新たな潮流を映し出している。
私は、このような議論は健全だと思う。なぜなら、社会全体で情報をシェアし、試行錯誤を積み重ねながら、GLP-1薬を社会が受け入れようとしているからだ。日本の報道の問題は、GLP-1薬の負の側面を強調しすぎ、そのメリットを十分に説明していないことだ。
肝臓疾患、片頭痛、男性更年期障害にも期待
GLP-1薬に関する研究は世界中で急速に進展している。注目すべきは、その効果が肥満症にとどまらず、多様な疾患への有効性が次々と示唆されている点である。
心血管疾患や悪性腫瘍に対する有用性については、既に本連載でも紹介したが、近年は、思いがけない疾患との関連にも注目が集まっている。
例えば、8月15日、米国食品医薬品局(FDA)は、進行した肝線維症を伴う代謝機能障害関連脂肪肝炎(MASH)の成人に対し、デンマークのノボ・ノルディスク(以下、ノボ)のGLP-1薬セマグルチド(商品名ウゴービ)を承認した。
MASHは、肥満や糖尿病など代謝異常を背景に肝臓に炎症と線維化が生じる疾患で、肝硬変や肝癌に進展し得る。セマグルチドは、MASH治療として初めて承認されたGLP-1薬である。この承認は、ノボが実施した治験の結果に基づくものだが、大学からも様々な臨床研究が報告されている。
6月17日に『Headache』誌に掲載されたイタリアのナポリ大学の研究グループによる臨床試験では、GLP-1薬リラグルチド(ノボ、商品名ビクトーザ)が片頭痛の予防に有効である可能性が示された。この臨床試験は、肥満と片頭痛の両方を有する31例を対象に実施され、1カ月あたりの片頭痛日数が平均20日から11日に減少した。
興味深いことに、この効果は体重減少とは無関係であり、研究チームは「GLP-1薬が脳脊髄液圧を低下させることで片頭痛に作用している可能性がある」と考察している。
7月に開催された米国内分泌学会年次総会(ENDO 2025)で、米国セントルイス大学の研究チームが発表した研究も興味深い。GLP-1薬(セマグルチド、デュラグルチド[リリー、商品名トルリシティ]、チルゼパチド)のいずれかを18カ月間投与された、2型糖尿病かつ肥満の男性110人を対象とした前向き研究(prospective study)において、正常範囲のテストステロン値を有する割合が53%から77%へと有意に増加したという。体重減少量が大きいほど、テストステロン値の上昇幅も顕著だったと報告されている。GLP-1薬が加齢男性性腺機能低下症(いわゆる男性更年期障害)に対する新たな治療選択肢となる可能性がある。
もっとも、これらの臨床研究は、いずれも小規模であり、現時点では患者に積極的に推奨できるようなレベルではない。実際の診療では、片頭痛や男性更年期障害に悩む肥満患者がGLP-1薬の使用を検討する際に、「悪化することはなさそうです」と言うくらいにとどめている。
ただ、かつて糖尿病治療薬が片頭痛や男性更年期障害の改善につながると考えた医師はどれほどいただろうか。GLP-1薬の研究がこれほど急速に進展している事実には驚かされる。その背景には、ノボとリリーによる激しい競争がある。
ノボ・ノルディスクが開発主導、「デュアル作動薬」で巻き返したイーライ・リリー
GLP-1薬の臨床開発を主導したのはノボだ。肥満症治療薬セマグルチドの開発成功により、同社は2023年に時価総額で欧州トップとなった。しかしながら、需要予測を誤り、供給不足に陥り、市場シェアを失った。
対照的にリリーは、後述するデュアルインクレチン作動薬の開発に成功し、さらに供給体制を早期に整備して、世界最大の市場である米国での処方数を逆転させた。さらに前出のローなどと連携しての遠隔医療での販売を拡大し、優位を確立した。現時点でも世界の売り上げではノボがリードするが、両社の勢いには大きな差がある。
デュアルインクレチン作動薬とは、GLP-1とGIP(胃抑制ポリペプチド)の両受容体に作用する新しいタイプの治療薬であり、代表的な薬剤がリリーのチルゼパチドである。
GLP-1は主に食欲抑制、胃内容排出遅延、インスリン分泌促進などに関与し、一方のGIPは脂肪組織や骨格筋に作用してインスリン感受性を高める。この2つのホルモンの相乗作用により、血糖コントロールと体重減少の両面で強力な効果が得られる点が特徴である。
今年5月、チルゼパチドがノボのセマグルチド(GLP-1単独作動薬)よりも体重減少効果で優れていたことを示す第3相試験「SURMOUNT-5」の結果が、米『ニューイングランド医学誌』に掲載された。
この試験では、チルゼパチド群では平均20%の体重減少が得られたのに対し、セマグルチド群では14%減にとどまり、統計学的に有意な差が認められた。研究はリリー主導の国際共同研究として実施された。ノボとリリーの主力商品が戦い、ノボが敗れたのだから、その影響は大きい。
デュアル作動薬の開発は世界の流れだ。ノボもGLP-1薬セマグルチドとアミリン類似薬カグリリンチドの合剤であるカグリセマの開発を進めている。
アミリンは膵β細胞からインスリンとともに分泌されるホルモンで、食欲抑制や胃内容排出の遅延を介してエネルギー摂取量を調整する作用をもつ。カグリセマはこのアミリンの作用を取り入れた新規薬剤として、GLP-1単独作動薬を上回る効果が期待された。
ノボは、第3相臨床試験(REDEFINE 1試験)の結果を、6月22日の『ニューイングランド医学誌』に発表した。この臨床試験では、糖尿病のない肥満成人において、68週間の投与で平均22.7%の体重減少が確認された。また、並行して進めたREDEFINE 2試験では、2型糖尿病患者に対して同期間で13.7%の体重減少を達成した。
何れの試験も期待を裏切った。カグリセマは、REDEFINE 1試験において2型糖尿病を有さない肥満成人の体重を平均22.7%減少させたものの、同社が目標としていた25%減には届かなかった。また、REDEFINE 2試験では、2型糖尿病患者において13.7%の体重減少にとどまり、リリーのチルゼパチドが同条件で示した14.7%減と比較して、やや劣る結果となった。
臨床試験結果の発表を受け、株価は急落、ラース・フルアーガー・ヨルゲンセンCEOは退任に追い込まれた。ノボが置かれた状況は厳しい。
現在、ノボが期待を寄せているのは、GLP-1およびアミリン受容体のデュアル作動薬であるアミクレチンだ。この物質はカグリセマのような合剤ではなく、1分子で両方の受容体を刺激することができる。
アミクレチンの高用量投与に関する第1b/2a相試験の結果が、『ランセット』誌7月12日号に掲載された。この試験では、肥満または過体重の成人を対象に、皮下注射60 mg群で36週時点の平均体重減少が24.3%となり、第3相試験の開始を決定づける有望な結果となった。今後、チルゼパチドを「打倒」すべく、ノボはアミクレチンの開発を進めていくだろう。
もっとも、60 mg群では脱落率が59%に上るなど、忍容性に課題が残る点も明らかとなった。前途は多難である。
「トランプ関税」で価格は大幅に値上げか
現在、両社は熾烈な競争を繰り返しているが、大きな影響を及ぼすのが、ドナルド・トランプ米大統領による関税政策である。GLP -1薬の急拡大は米国の対外貿易収支を悪化させる要因となっている。今年4月にはアイルランドからの輸入額が360億ドルに達し、前年の年間水準をすでに2倍以上上回った。背景には、米中対立に伴う関税リスクに備えた在庫積み増しと、治療薬としての世界的需要の爆発的拡大がある。
アイルランドは製薬集積と税制優遇を武器に世界的な生産拠点となり、リリーはチルゼパチドの原薬を同国で製造し、米国へ大量輸入している。また、ノボもデンマーク・カロンボーなどの拠点でセマグルチドを生産し、米国市場に供給している。
こうした中、9月1日からはEU加盟国であるアイルランドおよびデンマーク製医薬品に対し15%の関税が課されることになった。一部の医薬品には、さらに関税を上げるという報道もある。GLP-1薬が、そのターゲットに含まれるのは間違いないだろう。価格は大幅に値上がりするはずだ。
両社は米国内の生産拡充やサプライチェーン再構築によって対応を図る可能性もあるが、短期的には状況は悪い。両社を取り巻く状況は流動的だ。
以上、世界のGLP-1薬の臨床開発の状況を概観した。近い将来、安全かつ有効な新薬が登場する可能性は高く、肥満という多くの疾患の危険因子に対する介入が、世界の医療のあり方を根本から変える契機となりうる。
しかし日本は、この議論において立ち遅れている。GLP-1薬の研究開発は、単に治療法の革新にとどまらず、国際的な医薬品の需給構造や供給体制そのものを揺るがす可能性があり、いまや医療政策と産業戦略の両面で注視すべきテーマとなっている。我々は現状を正確に認識すべきである。
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