日本人は理性も焼け焦げる「バブル」の魔力を覚えているか

小平龍四郎『山一前後 日本証券市場の敗戦と復興』(日本経済新聞出版)

執筆者:小平龍四郎2025年12月19日
日本経済の「失われた30年」は山一証券の破綻前後で潮流が変わる[自主廃業発表の記者会見で社員の再雇用を訴える山一証券の野沢正平社長=1997年11月24日](C)時事

 四大証券会社の一翼を担う山一証券が自主廃業を発表したのは1997年11月。最後の社長となった野沢正平は、会見の場で「社員は悪くありません」と叫び、号泣した。株価は89年末のピークから下落して行く。含み損が発生した顧客企業の株式・有価証券を、山一は買い戻し条件付きで別の会社に転売する。隠語で「飛ばし」と呼ばれた取引が、行き詰まった果ての破綻だった。

 決算期に簿外に置ければ債務が表面化することはない――異常としかいいようがない行為が半ば当たり前に横行し、それに目を瞑れることが出世の条件でもあったあの時代は、なぜ生まれ、なぜ潰れたのか。『山一前後 日本証券市場の敗戦と復興』(日本経済新聞出版)の著者・小平龍四郎氏(日本経済新聞社編集委員)は、だれもが見えないふりをした市場の暗黒面が、その後の改革の方向性を定めたのだと指摘する。

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 バブルではないのか――。経済や金融市場の取材をしていると、しばしば耳にするフレーズだ。例えば「市場では、人工知能(AI)バブル崩壊の懸念が根強い。一方で、生成AIは当初の文章生成・対話応答から業務自動化へと用途を広げ、その進展ぶりは日々加速しているといっても過言ではない」(12月4日付日本経済新聞『十字路』)といった具合だ。

「バブル」という言葉がいささか軽く使われているのではないかと筆者は感じている。多くの場合、それは「相場の過熱」や「過大評価に基づく価格形成」とほぼ同義だ。安直な昔話は控えるべきだが、日本の1980年代のバブル期を体験した者として言わせていただければ、資産価格の急騰だけに注目して「バブル」を持ち出すのは、あまりにナイーブである。

「バブル」にはもう少し蠱惑的で道徳に反する側面がある。そこではルールが存在しないか、あっても踏みにじられ、人々は取り返しのつかないデタラメにふけっている。陶酔のなかで理性は焼け焦げ、権威が非合理を合理にすり替える。ファジーな同調圧力が支配する集団は疑問を発することさえ封じてしまう。そして、バブルは膨張していく。

 『山一前後 日本証券市場の敗戦と復興』(日本経済新聞出版)で記そうと試みたのは、そんな「バブル」の実相と空気感だった。「失われた」と総括されることが多い日本経済の過去30年は、1997年11月の山一証券の破綻の前後で明確に潮流が変わった。すなわち、バブルのデタラメが通用しなくなったにもかかわらず隠蔽と先送りを繰り返し、持ちこたえられなくなった「山一前」と、そこからの復興と再生に歩み出した「山一後」だ。

 ざっくり言って「山一前」がバブルの頂点の1988~1997年頃の10年弱、「山一後」はそれ以降の20年余りとなる。歳月にすればほぼ半分の「山一前」(1章~5章)を、「山一後」(第6章~10章)と等分にしたのは、バブルの隆盛と崩壊の過程を描くことに力点を置いたからだ。

「インサイダー取引規制」が今のような形に整備されたのは1989年。不透明な株の買い占めを抑える目的で「5%ルール」が導入されたのは1990年。そして、市場の不正を取り締まる証券取引等監視委員会の設立は1992年だ。つまり、1980年代終盤、日経平均株価がバブル期高値の3万8915円をつける過程の日本の株式市場は投機と不正がまかり通る鉄火場だった。

 そんなジャングルの掟が支配する発展途上国のマーケットにあって、おかしいと思うことを素直におかしいと言える雰囲気は皆無だった。

 一例をあげよう。1988年10月に発表された「日本の株価水準研究グループ報告書」は、欧米先進国の常識に照らして途方もなく高くなってしまった日本の株価を説明するため、土地の含み益を算入した純資産に対する株価の割合「qレシオ」を編み出した。

 企業がリストラクチャリングを通じて保有不動産の含み益を顕在化すると仮定すれば、伝統的な株価収益率(PER)や株価純資産倍率(PBR)でみて超割高な日本企業の株価はむしろ割安――。証券会社のセールストークと見まがう言説を、東京大学教授が主査を務める証券業界の研究グループが流布させ、異論を封じる。そんな時代だったのである。

「山一前」を象徴する事例をもう一つ。それは、破綻間際の山一証券の取締役会だった。

 1997年6月の株主総会で選出された山一の取締役会は、会長の行平次雄、社長の三木淳夫をはじめとして総勢40人。全員が年功序列で社内から取り立てられた男性であり、外国人、女性は皆無だった。2025年の東証プライム市場上場企業では、取締役会の人数は平均9.3人、社外取締役が4.3人。山一はいかにも異形の集団にみえそうだが、当時の一般的な上場企業はこんなものだった。業務の執行と監督を分離する考え方が希薄であり、年功序列に基づく論功行賞の到達点だった取締役会は、現在よりずっと大所帯だった。一方でコンセンサスや組織の暗黙知が重視され、異論を持ち込む社外の人材や女性、外国人が入る余地はほとんどなかった。

 山一の場合は、企業の財テクの損失を自ら引き取り簿外に隠す「飛ばし」取引の秘密を知っていることも、出世の条件だったとされる。明確に知ってはいなくても、株式市場の噂や取引先の指摘を受けても騒ぎ立てない、物わかりのよい人物が重用されていった。いつしか、山一の取締役会は「お友達クラブ」と呼ばれるようになった。

 破綻当時の社長、野沢正平は「社員は悪くありません」の号泣記者会見で語り継がれる。社長になって初めて不正を明かされ、パニックになって調査を始めたとされる。しかし、野沢氏も社長就任以前から取締役会の要職にあり、噂の1つや2つは耳にしていた可能性がある。それを受けて問題提起しなかったとしたら、取締役としての善管注意義務に反している。わかりやすくいえば、取締役として知らなかったでは済まされない、のである。

 ガバナンス不全の山一証券は日本株式会社の象徴であり、その破綻劇は日本経済がバブル崩壊の焦土から起き上がる起点となった、というのが「山一前後」を通底する縦糸のテーマだ。

 では、横糸のテーマは何かといえば、それは「グローバリゼーション」だ。バブル崩壊で日本経済が苦しんだ1990年代、日本以外の諸国・地域では資本市場のグローバル化が急速に進展した。ベルリンの壁崩壊に端を発する欧州統合の機運と統一通貨ユーロの創設。欧米間にまたがる巨大金融機関の再編、国境を超えたマネーの奔流。それらに突き動かされた資本市場のルール整備。直接・間接金融市場が機能不全に陥った日本との違いは鮮烈だった。

 拙著の第1章「グローバルとの遭遇」では、米カルパース(カリフォルニア州職員退職年金基金)が野村証券や大和証券に社外取締役の受け入れを求めたエピソードを紹介している。日本の証券市場、証券業界の暗黒大陸にグローバル投資家がメスを入れ、その病巣を摘出した結果が山一証券の破綻だった。

 グローバル資本市場の奔流に背を向けることなく、それを改革の原動力として生かせば、後の展開も変わっていたに違いない。会計基準の国際統一の機運を正視すれば、グループ会社を使った「飛ばし取引」の温存や、不良債権の公表先送りといったふるまいは取れなかったはずだ。

 その意味で、1990年代に本格化した国際会計基準(IFRS)づくりの意味はきわめて重かった。93年11月の国際会計基準委員会理事会で日本勢は「日本的な経営に合わない」として、国際的な比較可能性を高めるプロジェクトに反対した。痛恨の誤判断と言わざるをえない。

 今では当たり前の市場ルールがバブル期にはなかったということは、すでに書いた。追加すれば、連結ベースの決算が日本で本格化したのは2000年以降であり、それまではグループ会社の財務諸表はほとんど顧みられなかった。だからこそ山一証券のような簿外での損失隠しが可能だったのだ。会計のグローバル化がもっと早ければ、山一の運命はもっと違うものになっていただろう。

 拙著の第Ⅱ部『山一後』では、2000年以降に進んだ市場改革の動きを駆け足で概観している。そのひとつの到達点が、2024年2月22日、日経平均株価のバブル期高値更新だ。

 30余年前の何もかもがデタラメだったバブル期を、歴史とみるかOnly Yesterdayと受け止めるかは人それぞれだろう。けれど、そこには、繰り返し振り返り胸に刻み直すべき教訓が、風化することなく存在している。 (敬称略)

小平龍四郎『山一前後 日本証券市場の敗戦と復興』(日本経済新聞出版)
  • ◎小平龍四郎(こだいら・りゅうしろう)

日本経済新聞社編集委員 1988年、早稲田大学第1文学部卒。同年、日本経済新聞社入社。証券部記者として「山一証券、自主廃業」や「村上ファンド、初の敵対的TOB」「カネボウ上場廃止」などを取材。欧州総局、論説委員、アジア総局編集委員、経済解説部編集委員などを経て現職。日経本紙コラム「一目均衡」を10年以上執筆している。著書に『山一前後 日本証券市場の敗戦と復興』『グローバルコーポレートガバナンス』『アジア資本主義』『ESGはやわかり』(いずれも日本経済新聞出版)がある。

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