1月24日、東京大学大学院医学系研究科皮膚科学の佐藤伸一教授が収賄容疑で逮捕された。報道によれば、同教授は共同研究を進めていた一般社団法人日本化粧品協会の関係者から、研究の遂行や継続に便宜を図る見返りとして、性接待などの利益供与を受けていた疑いが持たれている。
これを受けて、1月25日に東京大学は藤井輝夫総長が声明を発表した。その中で「度重なる教員の逮捕は痛恨の極みであり、言語道断で、遺憾であると言わざるを得ません。この事態を極めて重いものと受けとめ、厳正に対処する所存です」と決意を述べた。そして、「教職員のコンプライアンス意識、民間資金の受入・活用状況のチェック体制、事態を未然に防ぎ早期に察知する組織風土等における課題が、具体的に明らかになりました」との現状認識を示した。1月28日には、謝罪会見を開いている。
マスコミの報道も、ほぼ同様だ。「教員の不正を防ぐチェック機能が不十分なガバナンスのあり方に厳しい目が向けられている(日本経済新聞1月24日)」など、組織のチェック体制を問題視する論調が強い。
私は、このような議論に違和感を抱く。東大の問題は、そんなところにはないからだ。問題の本質は、なぜ、佐藤氏のような人物が教授に選出されたかだ。
なぜこの「俗物」が教授に選ばれたか
医療ガバナンス研究所は製薬マネーデータベース「YEN FOR DOCS」を公開しているが、2017〜21年の5年間に佐藤教授が、講演料などの名目で製薬企業から受け取った金の総額は約5365万円だ。合計364件の講演などをこなしている。これでは、製薬企業のアルバイトの合間に教室運営をしていると言われても仕方ない。
佐藤教授のこのような振る舞いは、東大教授になってから始まった話ではない。佐藤教授が講師・助教授として勤務した金沢大学の関係者は、「優秀な医師でしたが、業者にたかることで有名だった」と言う。
このような人物は、大学教授に相応しくない。大学の「チェック機能」として最も問われるのは、なぜ、このような「俗物」が東大医学部の教授選で選出されたかだ。過半数の教授が賛同したことの責任は重い。
実は、この点こそが、東京大学が長年抱えてきた問題の本質である。私は、今回の佐藤教授の事案そのもの以上に、東京大学という組織に根深く残る「俗物性」を感じることが少なくない。残念ながら、その性格は偶発的なものではなく、東京大学の成立過程と歴史的背景に深く規定されており、短期間で是正される性質のものではない。
大学自治は政治権力との軋轢の中で鍛えられる
東京大学は1877年(明治10年)、東京開成学校と東京医学校が統合され、日本で初めての近代的大学として発足した。その制度設計において参照されたのは、西欧の大学モデルであった。
欧州の伝統的大学は、12〜13世紀にかけて、聖職者・法律家・医師という「古典的プロフェッショナル」を養成することを目的として成立した。たとえば、世界最古の大学であるボローニャ大学はローマ法に基づく法学教育を通じて法律家を育成したし、パリ大学は神学を中心に聖職者を輩出した。医学教育については、サレルノ医学校(後のサレルノ大学、世界で2番目に古いとされる)に代表されるように、ヒポクラテスやガレノスに連なる古典医学の教授が行われ、後に大学医学部として制度化されていく。
中世ヨーロッパにおける古典的プロフェッショナルとは、神学・法学・医学といった体系化された知を修め、社会的使命を担う聖職者・法律家・医師を指す。彼らの地位は、専門知が一般市民に比して著しく高度であるという情報の非対称性を前提に成立したため、患者や依頼人は判断を専門家に委ねざるを得なかった。この地位の濫用を防ぐため、外的統制に先立つ自己規律が重視され、その根拠は神に誓う良心と倫理に置かれた。専門知を公共善によって拘束する点に、古典的プロフェッショナリズムの本質がある。
古典的プロフェッショナルは、しばしば宗教権威や世俗権力と対峙した。1277年のパリ大学では、神学と自然哲学の緊張が高まり、司教エティエンヌ・タンピエがアリストテレス哲学の命題を禁じた。これは学問の自由と教会教義の衝突を象徴する事例である。他にも、法学の中心地であったボローニャ大学では、ローマ法を拠り所とする法学者が都市自治勢力や皇帝権と対立し、大学の自治権を巡る紛争が繰り返された。
この種の緊張関係は過去のものではない。近年のハーバード大学とドナルド・トランプ政権を巡る対立も、学問の自律と政治権力との摩擦という点で、同じ系譜に位置づけられる。こうした軋轢を通じてこそ、欧州を起点とする大学では、「大学自治」という概念が歴史的に鍛え上げられてきたのである。
このように、古典的プロフェッショナルは、世俗権力や宗教的権威との適切な距離の取り方に常に苦慮してきた。その象徴が学寮である。都市の喧騒や権力から一定の距離を保ち、学問と自己規律に専念する空間として機能した。
東大の俗物根性はどこから来たか
欧米の伝統的大学は、古典的プロフェッショナルの育成を目的として成立し、その影響は現在も色濃く残っている。医学・法学・神学が中心的地位を占め、学士課程修了後に医学や法学を大学院レベルの専門職課程として履修する制度は、こうした歴史的背景に基づくものだ。
ビジネススクールも、この古典的プロフェッショナル養成モデルを模倣したものとされる。マッキンゼー・アンド・カンパニーの基盤を築いたマービン・バウアーは、「コンサルタントもプロフェッショナルである」と位置づけ、専門知の行使における自己規律とクライアントへの責任を強調したことで知られている。
日本の「悲劇」は、大学という制度が、明治政府によって国家主導で導入された点にある。東京大学が設立されたのは1877年(明治10年)であることは前述した。当時の日本は内憂外患の只中にあり、国内では西南戦争が勃発し、対外的には欧米列強の脅威に直面していた。明治の元勲たちが最優先したのは、富国強兵と統治体制の近代化であった。
その一環として、明治政府は1873年(明治6年)に後の東京大学工学部となる工学寮を開校し、翌年東京医学校を設置した。
工学教育が独立した組織として構想されたのは、軍事・産業振興を急ぐ国家的要請に加え、欧米の高等教育制度を強く意識した結果と考えられる。
欧米における工学教育は、産業革命以降、鉄道・造船・機械といった産業需要に直結する実学として発展してきた。その成立過程は、聖職者・法律家・医師といった古典的プロフェッショナルを育成してきた伝統的大学とは本質的に異なる。米国では、マサチューセッツ工科大学やカリフォルニア工科大学に代表されるように、従来のリベラルアーツ中心の大学とは別系統の高等教育機関として発展してきた。これは、工学が国家や産業の要請に強く結びついた学問であったという歴史的背景による。
話を戻そう。明治政府が医学部と並んで重視したのが法学部である。近代国家の建設には官僚機構が不可欠であり、明治政府は東京大学法学部を通じて官僚の計画的養成を図った。これは、国家権力や世俗権力から一定の距離を保ち、市民の権利を守ることに重きを置いてきた欧州の伝統的な法学教育とは、明確な対照をなす。
欧米では、法学部卒業生の多くが法律家として市民の権利を守ることを使命とし、その延長線上からバラク・オバマのような政治家も生まれている。
医学部卒業生の多くは、医師として患者を診療することに職業的誇りを見いだし、社会の矛盾や苦難と最前線で向き合う。その延長線上から、アフリカで生涯にわたり医療活動を行ったアルベルト・シュバイツァーや、HIV/AIDSや結核治療を貧困地域に広げ、Partners In Healthを創設したポール・ファーマーのような人物が生まれてきた。
これに対し、東京大学は対照的である。法学部卒業生は法律家として市民を守るよりも、官僚として国家権力を行使することを志向し、医学部卒業生は患者を診療することより、研究に従事する方が価値あると信じる。この内在的価値観こそが、東京大学の際立った特徴である。東京大学は、このことを公言して憚らない。まさに「俗物根性」だ。私は、その雛形は明治時代に築き上げられたと考えている。
もっとも、これは当時の歴史的条件を踏まえれば、ある意味で必然でもあった。明治の元勲たちは徹底したリアリストであり、国家建設を最優先課題とした。初代文部大臣を務めた森有礼は薩摩藩出身で、1865年に英国へ留学し、帰国後には英語を日本の公用語とする大胆な構想を打ち出した。彼らにとって重要だったのは、理念よりも、英国をはじめとする先進国の制度を迅速に導入することだったのである。そのためには、母国語を捨てることも厭わない。
戦前の東京大学法学部は、穂積八束や上杉慎吉を中心に、天皇主権論や国体明徴といった国家主義的思想を理論面から支える役割を担った。しかし、明治初期の元勲たちには、こうしたイデオロギーに拘泥しなかった。徹底して実利を優先し、江戸期まで日本の学問の中核であった和学や漢学を「無用」として退け、西欧知の導入へと大きく舵を切ったのである。
東京大学は、その後もこの影響を引きずり続けた。戦前から戦中にかけて総長を務めた平賀譲は、その典型である。優れた技術者であり、人格的にも均衡の取れた人物であったとされるが、海軍の技術将校として最終的に中将にまで昇進した軍人であった。国家権力の象徴である軍人が、国家を代表する大学のトップに就くという構図は、欧米の大学ではほとんど想定されない。
今日に至るまで、東京大学は技術や制度設計を優先し、思想・芸術・哲学といった領域を軽視する傾向を抱えてきた。この偏りこそが、東京大学の構造的な弱点であり、その思考をしばしば浅薄なものにしている。
京都大学に初代総長が根付かせた価値観
日本の高等教育機関がすべて東京大学と同じメンタリティーを共有しているわけではない。第一高等学校や京都大学には、東京大学とは異なる内在的価値観が形成された。
第一高等学校が設立されたのは1886年(明治19年)である。明治体制が次第に安定し、1885年には伊藤博文を首班とする内閣制度が始まり、1889年(明治22年)には大日本帝国憲法が発布された。自由民権運動が高揚していた時代であった。
第一高等学校は、こうした時代精神を色濃く反映した教育機関である。その基礎を築いたのが第3代校長の木下廣次であった。熊本藩出身の木下は、パリ大学に留学して法学を学び、帰国後の1889年(明治22年)、帝国大学法科大学教授を兼ねながら第一高等中学校(後の第一高等学校)校長に就任した。
特筆すべきは、学生自治を積極的に認め、1890年(明治23年)に自治寮を設置した点である。これは後の駒場寮へと連なる自治の伝統の出発点となった。
学寮は、日本古来の高等教育の伝統ではない。日本の高等教育の雛形は江戸時代の藩校にあり、藩校は城下に居住する士族を主な対象としていたため、寄宿による共同生活を前提としていなかった。その名残として、現在も多くの名門高校が城郭周辺に立地し、校名に東西南北などの方角を冠する例が少なくない。これは藩校の空間的・制度的伝統を反映したものと考えられる。
これに対し、西洋の大学の内在的価値観の中核には自治がある。世俗権力は移ろいやすいが、学問は永遠であり、それを守るためには大学の自治が不可欠だという思想である。木下廣次は、こうした価値観をフランス留学を通じて体得し、日本の高等教育に持ち込んだと考えられる。
木下は、1897年(明治30年)に京都帝国大学が設立されると、その初代総長に就任した。京都でも寄宿舎(後の吉田寮につながる制度的基盤)を整備し、学生自治を認めた。いわゆる京都大学の「自由の学風」は、木下の時代にその礎が築かれたといえる。
京都帝国大学は、日清戦争後、日本が国際社会で「一流国」としての地位を獲得しつつあった時期に設立された。戦後賠償金による財政的余裕を背景に、大学人の側にも、欧米の大学が重視してきた「自治」の文化を本格的に導入しようとする気運が高まっていたと考えられる。
その後、京都大学では、教授の採用や昇進を官僚機構ではなく教授会の合議によって決定する慣行が形成され、教授会が実質的な人事権を掌握する体制が確立していった。これは、日本の大学史においても特異な自治モデルであった。
この歴史的経緯こそが、東京大学と京都大学の学風の違いを生み出した要因である。京都大学にあって東京大学に欠けているのは、大学人が自らの自治を引き受ける覚悟であり、大学はいかにあるべきかという哲学そのものだ。この差異が、京都大学で学問が持続的に発展し、ノーベル賞に象徴されるように多様な分野で成果を上げてきた背景にあるのだろう。
不祥事は「ガバナンス論」では解決しない
東京大学の学問はしばしば深みに欠ける。先進的な技術や制度を、その背後にある思想や価値観を十分に咀嚼しないまま導入してきたからである。これは、富国強兵を最優先した明治期の国家的要請を色濃く反映している。東京大学では、大学人が十分に自立せず、国家権力や世俗権力に対して過度に従順であり続けてきた。その姿勢こそが、今回の不祥事を生んだ構造的背景にあると、私は考えている。
マスコミは大学の不祥事を、組織論やガバナンスの問題として捉え、国家を含む外部管理の強化を求めがちである。しかし、その方向は事態を改善するどころか、むしろ悪化させる可能性が高い。同じ国立大学であっても、東京大学のような不祥事は、京都大学では稀である。これは制度や組織構造の違いというより、各大学が長い歴史の中で形成してきた内在的価値観の差によるものだ。現代において、どちらの価値観が求められているかは明らかである。
東京大学は、西欧文明を迅速に吸収し、官僚や技術者を養成するため、国家主導で設立された大学であった。その歴史的使命はすでに果たされている。学問の進歩には本来、自由な競争と自治が不可欠であり、国家による独占的な管理は学問を停滞させるだけである。まさにその弊害が、現在の東京大学に表れている。
いま東京大学に求められているのは、さらなる外部統制ではない。大学とは何か、学問とは何かという原点に立ち返り、大学人自身が主体的に議論することである。問われているのは、東京大学の大学人の気概にほかならない。
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