安田講堂事件後、多くの有能な人材が東大を去った[安田講堂前で行われた「東大紛争」=1968年11月22日](C)時事

 前回、昨年11月から1月にかけて教員2人が逮捕された東京大学医学部の不祥事を、明治期以降の歴史的経緯を踏まえて論じた。今回も、この問題を考えたい。

 東大医学部には1975年の卒業生がいない(留年生などを除く)。安田講堂事件の影響で、1969年の入試が中止されたためである。私が東大理科三類に合格してから39年が経つ。この間、多くの鉄門(東大医学部卒業生)関係者と接してきたが、1974年以前の卒業生と1976年以降の卒業生では、気質に大きな違いを感じることが少なくない。今回の不祥事の背景には、こうした断絶も影を落としているように思われる。

 東大医学部の「性格」を形づくった要因として、明治期の開学の経緯と、第二次世界大戦の敗戦がある。とりわけ直接的な影響は後者が大きかったのではないか。この点は、これまで十分に論じられてこなかった。

 東大医学部は、戦時体制の中で戦争遂行に深く関与した。場合によっては主導的役割を担ったと言ってよい。日米開戦時の東條内閣の顔ぶれを見れば、その一端がうかがえる。

 文部大臣を務めた橋田邦彦は、1908年に東大を卒業した基礎医学者で、生理学教授、第一高等学校長を歴任した。1940年の第二次近衛内閣で文部大臣に就任し、東條内閣でも1943年4月まで在任した。軍部の意向に全面的に追随したわけではないが、在任中に学徒動員を推進した。

 厚生大臣を務めた小泉親彦も鉄門である。1908年に東大を卒業し、軍医の道を歩んだ。陸軍軍医総監、陸軍省医務局長を経て、1941年の第三次近衛内閣で厚生大臣に就任し、1944年7月まで在任した。健兵健民政策を推進し、戦争遂行体制の強化に貢献した。

 橋田、小泉は、東大と陸軍省という異なる組織に身を置きながら、いずれも国家の枠組みの中で栄達し、最終的に大臣にまで上り詰めた。当時の鉄門にとっての「成功モデル」だったのだろう。なお、両名とも戦犯容疑で出頭を求められた際に自決している。

 私はこの世代を直接知らない。鉄門の先輩たちが彼らの名を口にすることも、ほとんどなかった。私が40代になり、東大医学部のあり方に疑問を抱くようになってから、ようやく関心を持ち、この世代の価値観やキャリアを調べ始めた。

敗戦後も「国家」を規範とした戦前世代

 第二次世界大戦の敗戦で、日本は致命的な打撃を受けた。東大医学部も例外ではない。ただし、鉄門の戦前世代に限定すれば、内在的な価値観は大きく変わらなかったようだ。

 その象徴が東龍太郎である。1917年に東大を卒業し、生理学を専攻する基礎医学者となった。1934年に教授に就任し、戦後は厚生省医務局長などを歴任。1959年に東京都知事に当選し、2期8年にわたり在任した。その間に東京五輪を成功に導いている。退任後は東邦大学学長などを務めた。大臣と知事で役職は異なるが、そのキャリアの軌跡は橋田や小泉と重なる。

 田宮猛雄も、その系譜に連なる人物である。戦後の医学界を代表する存在だ。1915年に東大を卒業し、感染症を専攻、伝染病研究所(現・東大医科学研究所)に勤務した。同研究所教授、医学部教授、医学部長を経て、戦後の1948年に日本医学会会長、1950年に日本医師会長に就任する。1962年には、新設された国立がんセンター(現・国立がん研究センター)総長に就任した。

 1950年代、水俣病が社会問題化した際には、日本化学工業協会の関係組織が設けた「水俣病研究懇談会」の委員長を務めたことが知られている。これもまた、国家や産業と近い距離で活躍する「鉄門的」キャリアの一例だろう。

 晩年、田宮は、水俣病の原因をチッソの廃液と指摘した熊本大学研究チームに対し、結果的に圧力をかける側に回ったことを悔い、謝罪の言葉を残したとされる。国家と被害者の狭間で苦悩した一人の医師の姿でもあった。

 変化を起こすのは、常に若い世代だ。戦中・戦後に東大を卒業した世代には、在野で活躍する人材が目立つ。その一人が、1942年に東大を卒業した諸橋芳夫である。1952年、千葉県の国保旭中央病院の初代院長として赴任し、「すべては患者のために」を掲げ、同院を全国有数の地域中核病院へと育て上げた。

 冲永荘一も特記すべき人物だ。1958年に東大を卒業した産婦人科医で、父が設立した帝京商業高校などを継承し、1966年に帝京大学を創設。以後、一代で有数の学校法人グループへと発展させた。

 官や世間に阿ることを嫌い、1980年代に薬害エイズ事件が社会問題化した際には、厚生省エイズ研究班班長だった安部英・帝京大学教授を擁護した。安部は冲永の鉄門の先輩である。当時、安部や帝京大学は厳しい批判にさらされたが、その後の検証で、少なくとも当時の科学的知見の中で妥当な判断であったことが明らかになっている。この点は、田宮の振る舞いと対照的である。

 諸橋、冲永は、頭脳明晰なだけでなく、胆力とリーダーシップを兼ね備えた稀有な人物だった。東大や官界での「栄達」を望めば、十分に可能だったはずだ。にもかかわらず、彼らがあえて在野の道を選んだ背景には、戦争体験を通じて国家に対する根深い不信を抱いていたのではなかろうか。この視点に立つと、安田講堂事件の見え方も変わってくる。

「国家と対峙する」体験としての安田講堂事件

 この事件の発端は、1968年1月、東大医学部の学生が「インターン制度に代わる登録医制度」に反対して無期限ストに入ったことだった。学生側は教授会との交渉を求めて医局を封鎖したが、医学部はこれを理由に17人を処分した。ところが、処分対象の中に封鎖に関与していない学生が含まれていたことが後に判明し、学生の反発は激化する。処分撤回を求める学生と大学側の対立は平行線をたどり、紛争は医学部から全学へと拡大していった。

 この時、学生側で中心的な役割を担ったのが今井澄である。1958年に東大へ入学したが、1960年の安保闘争、1962年の大学管理法反対闘争に関与し、二度にわたり退学処分を受けている。幸いなことに、いずれも復学している。

 東大紛争の時点では卒業を控えていたこともあり、当初は前面に立つことを避けていた。しかし周囲に推される形で医学部生のリーダーとなり、安田講堂事件では「安田講堂防衛隊長」に指名された。全共闘議長の山本義隆が現場を離れた後は、実質的な現場責任者を担った。「我々の闘いは勝利だった」で知られる時計台放送は、今井によるものとされる。

 事件後、今井は東京拘置所に収監され、1970年に卒業、医師国家試験に合格した。長野県茅野市の組合立諏訪中央病院に赴任したが、1977年に安田講堂事件の判決が確定し、1978年まで静岡刑務所に服役した。出所後は諏訪に戻り、のちに「諏訪モデル」と呼ばれる地域医療の確立に尽力した。

 私が医学部生、あるいは研修医だった頃、彼らの多くは30代後半から40代半ばで、私たちを指導する立場にあった。少なからぬ先輩医師から、「我々は学部を挙げて国家と対峙した。さまざまなことがあったが、その経験は宝だ。その中でも今井は別格だった」との趣旨の言葉を聞いた。

 その後、今井は1992年の参議院選挙に社会党から立候補して当選し、のちに民主党に移って医療問題に取り組んだ。2002年、胃がんのため死去。民主党政権で官房長官などを務めた仙谷由人は生前「彼は、我々の世代のカリスマだ。今井がもう少し生きていたら、日本の医療は今とは違っていたかもしれない」と筆者に語っている。

 実は、安田講堂事件の際に体制側にいた人物と直接お会いしたことがある。当時の医学部執行部の一人で、1969年4月から医学部長を務めた中井準之助である。1945年に東大を卒業した解剖学者だ。 

 学生時代、私は全学の剣道部(運動会)に所属していた。1年生は有力OBの連絡係を担当する。メールや携帯電話のない時代で、手書きの葉書に時候の挨拶を添え、稽古や行事の予定を知らせた。私の担当は、中井準之助(当時浜松医科大学学長)、赤城宗徳(当時衆議院議員)、結城令聞(僧侶、東大名誉教授、当時京都女子大学長)だった。

 この縁で、中井と何度か言葉を交わす機会があった。「医学生を処分した執行部の一員」と聞いていたため、『白い巨塔』に登場するような権威主義的な人物を想像していたが、実際は温厚で誠実な人柄がにじみ出ており、拍子抜けした記憶がある。

 余談だが、1969年、東大本郷キャンパスを管轄する警視庁本富士警察署の署長は、のちに警察庁長官となる国松孝次だった。1961年に東大法学部を卒業した東大剣道部OBである。この時期に本富士署長に就いていたのは、学生紛争への対応という意味合いが大きかったのだろう。国松は、東大法学部の恩師や剣道部の大先輩と、現場で向き合う立場にあったことになる。

 筆者が当時の状況を尋ねた際、国松は「医学部執行部は対応を誤った。誤認処分が明らかになった時点で、誠実に対応すべきだったが、それができなかった」と語っていた。

 国松は警察庁退官後、駐スイス大使などを経て、自らの命を救った救急医療体制の整備に尽力した。高い知名度から国政進出や公職就任の要請も少なくなかったはずだが、認定NPO法人救急ヘリ病院ネットワーク理事長など、在野の立場での活動を貫いた。朝日新聞や毎日新聞などリベラル系メディアにも積極的に登場しており、現在の警察官僚幹部像からは想像しにくい存在である。今井と国松は同世代だ。戦争と占領体験が、このような人材を生み出したのだろう。

鉄門に残った「後遺症」

 話を東大医学部に戻そう。安田講堂事件は鉄門に大きな「後遺症」を残した。「この事件で多くの有能な人材が大学を去り、医学研究の面で、京都大学や大阪大学の後塵を拝する結果になった」と語る医師は少なくない。

 多くの医局が「分裂」した。精神科では、学生運動の影響を受けた若手が、患者中心や社会的責任を重視し、薬物中心・教授主導の旧来の臨床を批判した。私が東大医学部の学生だった1987〜1993年当時、精神科は、それぞれのグループが外来と病棟に分かれ、別々に実習を行う体制だった。

 小児科も状況は似ていた。この診療科からは阿部知子前衆議院議員(1974年卒)のようなリベラル系の国会議員が出ている。安田講堂事件以降、鉄門出身の国会議員は、今井澄、阿部知子、そして直近の選挙で落選した米山隆一の三人に限られる。いずれも野党系の政治家である。米山が新潟県知事を務めた例を除けば、知事に就いた例も見当たらない。戦前・戦中の鉄門の「成功モデル」とは、大きく様変わりした。

 私が最大の「後遺症」と考えるのは、国家権力や巨大資本に対して過度に従順になったことだ。羹に懲りてなますを吹く状況に陥ったのではないか。この点について、新家眞・東大名誉教授(眼科)は筆者に対し、「研究業績を上げ、どこかの大学教授になり、賞をいくつももらい、学会の理事長になる——そんなことしか考えない人ばかりになった」と語っていた。

 新家氏は1974年卒で、大学1年の冬に安田講堂事件を経験している。上級生たちの「闘い」と、その後の人生の行方を間近で見てきた最後の世代だ。長い物に巻かれていくうちに、いつの間にかまっとうな判断力を失っていった後輩たちに、忸怩たる思いを抱いているのだろう。

 冒頭の不祥事のみならず、近年の東京大学医学部では臨床研究や論文をめぐる倫理問題が幾度も指摘されてきた。それらの関係者の多くは、卒業後も長く本郷にとどまり、大学の中で順調に出世してきた人たちだ。

 そこに、国家の中枢に身を置いて社会を動かそうとする覇気のある人物は見当たらない。在野に出て社会改革に挑もうとする人もほとんどいない。ただ東京大学を頂点とする医学界の中で地位の上昇を望み、政府や製薬企業と無難な関係を保つことに汲々としているように見える。

 安田講堂事件から半世紀以上が過ぎた。そして、今回の不祥事を経験した。鉄門は、そろそろ目を覚ますべきときではないだろうか。 (敬称略)

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