「なぜ植物に脳がないのか?」――進化生物学の大家を感嘆させた、AI起業家の見事な説明とは?

マックス・ベネット(恩蔵絢子・訳)『知性の未来 脳はいかに進化し、AIは何を変えるのか』(新潮社)

執筆者:長谷川眞理子2026年3月19日
植物もみな、環境変動に対抗する何らかの知性を持っている (C)lovelyday12/stock.adobe.com

 生命と知性の38億年の歴史を最新のAI(人工知能)研究と比較しながら辿り直し、「5つのブレイクスルー」が私たちの知性を発展させてきたことを解き明かしたマックス・ベネット著『知性の未来 脳はいかに進化し、AIは何を変えるのか』。AI起業家である著者だからこそ成しえた壮大な試みを、進化生物学者の長谷川眞理子さんは「ヒトが進化の過程でどのように知性というものを獲得したのかを、自然科学で解き明かした名著」と高く評価する。

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 AIというものが出てきて、今、世の中は混乱している。この登場を歓迎する人たちもいれば、大変なことになったと憂える人たちもいる。私は、どちらかと言えば後者だ。とても「歓迎」はできない。

 人工知能と言えば、映画でも有名な『2001年宇宙の旅』(1968年公開)に出てくるHALという機械を始めとして、1960年代からSFの世界で考えられてきた。人間は、自分たちに代わって、もっと素早くもっと適切な判断をしてくれる存在を求めているのに違いない。宇宙の成り立ちから、自分自身の毎日の生活での幸不幸まで、それこそ「人知の及ばない」事柄はいくつもあるので、それに何とか対処する方法を求めるのが人間だ。これまでは、そんな頼みの相手は「神様」だった。それがAIに取って代わられようとしているのだろうか?

 AI技術の進展はめざましい。ほんの1年でも、その性能は急激に向上している。かつては、あんなことでは役に立たないと言われていたことが、今ではできるようになった。それは結構なのだが、問題は、それに対する私たち人間自身の反応にあると私は思うのだ。多くの人々は、それを、AIがだんだん人間に近づいてきたのだと感じているらしい。

私たちがAIを人間だと思ってしまう理由

 また、発達したAIを、今や新しい生物種として認定しようなどと主張する人もいる(ということを、私はネットで知ったのだが)。しかし、それは違うだろう。AIはあくまでも機械であって、人間のような生き物ではない。しかし、人間は、人間もどきに反応するものを「人間、あるいは生物」だと思ってしまうので、AIが蔓延する社会では、困ったことがたくさん起きるに違いない。しかし、困ったことだと思うのは、私のような古い人間であって、AIやロボットやネットで育った世代の人々は、そうは思わないだろう。つまり、人間自身のあり方が変わっていくのだと思う。

 庭のゴミをきれいに掃除してくれるロボットがある。障害物があると迂回し、昼夜を問わず、燃料のある限り作動する。それを見た人が、「本当によくやってくれてありがたい。少し休ませてあげたらどうか」と言ったそうだ。お掃除ロボットはあくまでもロボットであり、疲れを感じることもなければ、その他のどんな感情もない。それでも、自ら動いて仕事している存在を見ると、人は、相手を同じ人間だと思ってしまうのだ。こんな擬人化はたわいもないことであるが、それほどたわいがなくはない事柄も起きている。たとえば、昨今の中学生の多くは、AIに人生相談をしているらしい。AIを相談相手として、その言うことを真に受けてしまってよいものだろうか? 

生物進化から知性を見ると

 そこで私は以前から、AIにどう対処するかを考えるには、AIが何をしているのかの技術的な理解とともに、生物としての人間の知性について深く知らねばならないと思っていた。そんなことをどこかに書いたこともあるが、ずっと漠然とそう思っていただけである。そこに登場した本書は、私が長年思ってきたことの多くを分析してくれた。つまり、知性というものはいくつもあり得るだろうが、「人間」の知性はどんな道筋をたどって進化してきたのか、それを知ってから、AIについて考えようということである。

 本書の著者であるマックス・ベネットは、生物学者でも人類学者でもない。AlbyというAI企業の創始者であり、もとはと言えば、ワシントン大学で経済学と数学の学士号を取得した。同大の最優秀経済学優等論文の賞を得ているし、進化神経科学と知性をテーマにした論文をいくつも出しているということなので、もともと、研究が好きで探求心の旺盛な人なのだろう。自分自身、AIを開発する中で、AIの作動をより良くするように開発すると同時に、ヒトという生物が持っている知性の進化の道筋を知らねばならないと思って、研究を続けた。その結果が本書である。これは、壮大な試みであり、大変に面白い。

 本書では、38億年にわたる地球上での生物進化の中で、ヒトの知性に至るまでの出来事をたどる。生物はみな、どんな形態の生き物であっても、自ら存続して子孫を残さねば消えてしまう存在だ。では、どうやって自ら存続して子孫を残すか? この難しい世の中でその難問に答えて存続していく方策は一つではない。最高の解決などはなくて、環境によっていろいろなやり方がある。植物は少しも動かず、ただ受け身の存在のように見えるが、それでも現在に至るまで存続しているということは、それなりに成功してきたのだ。だから、植物もみな、環境変動に対抗する何らかの知性を持っていると言える。

 動物とは、自ら動くことができる存在だ。それは、動かない存在とはまったく違う。そして、ヒトはそのような動物の一種であり、ヒトの知性に至るまでには、いくつもの進化上の改革があった。本書の著者は、それらを5つのブレイクスルーとして取り上げている。ブレイクスルーの1は、左右相称の獲得。ブレイクスルーの2は、脊椎動物の登場。その3は哺乳類によるシミュレーションの発達。その4は霊長類の能力である「メンタライジング」の進化。その5は、ヒトの言語の獲得である。これらの一つ一つについて解説する余裕はないが、どれもその通りだろうと納得する。

なぜ動物には脳があり、植物にはないのか

 ここに書かれている一つ一つの事実は、生物学者としてはすでによく知っていることだ。たとえば、植物は光合成をする独立栄養生物であるのに対し、動物や菌類は糖と酸素を外から取入れて(食べて)いかねばならない従属栄養の生物である。こんなことは、生態学を学んだ人なら誰でも知っている。しかし、これを、知性の進化という文脈で考えると、違った見え方ができ、なぜ植物には脳がないのかがわかる。

 従属栄養生物でも、食べ物をからだの外で消化するのと(菌類)、からだの中に取入れて消化するのと(動物)では、構造が違ってくる。私たちはからだの中で食べ物を消化する動物なので、胃というものがあるのだ。そして、胃ができるには、からだの中に空洞を作らねばならない。それが、胚発生のときに起こる原腸陥入というプロセスで、この発生のプロセスは、すべての動物で共通である。原腸陥入については知っていたが、こんな説明をしてくれたら、発生学ももっと楽しくなったのにね、と思う次第である。

 そして、からだの作りとしての左右相称だ。動物という存在は、他の生物を捕まえて食べねば生きていけないのだが、動物のからだの形態には、放射相称と左右相称の2つがある。放射相称とは、ヒトデのように全方向に腕が伸びているような形態で、左右相称とは、右と左だけがある形態だ。放射相称の動物はみな、獲物が近づいてくるのをただじっと待ち、十分に近くなったら飲み込む。それに対して、左右相称の動物は、獲物を追いかけて捕まえる。つまり、目標に向かってからだを「操縦」するのだ。これには、大変な計算能力が必要で、脳というものを持つのは、左右相称の動物だけなのである。と、ここまででまだブレイクスルーの1に関する話だけだ。でも、とてもおもしろいでしょ?

 こうして私たちヒトの持つ知性に至る道を見ていくのだが、冒頭に述べたような、私たちがAIと付合うにあたって問題となる事柄は、ブレイクスルーの4の、「メンタライジング」の進化あたりから出てくるのだろう。メンタライジングとは、自分には「心」があり、他者にも「心」があり、「心」がからだを動かしているのだという想定から、相手の「心」を推測する能力をさす。この能力は、霊長類全般に見られるが、ヒトではとてもよく発達している。だから、お掃除ロボットが自ら動いて仕事をしているのを見ると、私たちは、このロボットにも私たちと同じような「心」があり、その「心」がロボットのからだを動かしているのだと、自動的に感じてしまうのである。

 そして、言語の獲得だ。言語の進化については、私もいろいろ考えているのだが、言語の持つ本当の新しい力は、著者が言うように、アイデアを言葉という象徴に表現し、それを多くの個体が共有することによって、アイデア自体が蓄積、改良されていくことにあるのだろう。言語は、単なるシグナル以上のものである。アイデアを複数の個体で共有し、それが蓄積されて伝えられる中で改良される。これこそが、ヒトの持つ蓄積的な文化のもとだろう。だからこそ、数百年というような短期間で、これほどの文明の発達が可能になったのだ。

1000兆年先の未来に

 では、これからはどうなるのか? AIの発達は、ヒトの知性の中の、ほんの一部である論理計算能力をずば抜けて大きくしたものと言ってよいだろう。こんなものを手にした人類は、今後どうなるのか? 著者は、私たちの太陽が燃え尽きるまで、この宇宙がなくなるまで、といったような長い時間を考えれば、まだまだ時間はあるので、1000兆年先までを考えようと言う。そして、やがて人工超知能の世界になるだろうと言う。しかし、私はそう思わない。1000兆年先までの時間はあるだろうが、私たちの系統が、それが人工超知能であれ、存続していくことはないと思うのだ。

 まずは、エネルギーである。今でもすでに、新しいデータセンターはもう作れないくらい、コンピュータは巨大な電力を消費している。核融合など、新しいエネルギー生成法を発見すればいいのだろうが、そのことと、この文明が地球上で存続できなくなるのとどちらが先か、私は、いずれ間に合わなくなるような気がするのだ。そうなっても、人類が絶滅するわけではないし、生物がいなくなるわけでもない。でも、人工知能などを作って維持し続けるタイプの文明は消えるだろう、ということだ。

 最近、北インドに行って、釈迦の思想を学んだせいもあるが、色即是空、すべてのものには終わりがある、と考えるのは達観であり、真実ではないかと思う。しかし、西洋思想では、そう考えないのだろう。本書は、ヒトが進化の過程でどのように知性というものを獲得したのかを、自然科学で解き明かした名著である。ヒトの脳の働きと、現在のコンピュータがどのように働いているのかについて、膨大な事実を要領よくまとめてくれている。私も、こんな科学の本は大好きだ。だが、私が抱く人間観・世界観は、著者のそれとは本質的なところで、何か異なる気がしてならない。

マックス・ベネット(恩蔵絢子・訳)『知性の未来 脳はいかに進化し、AIは何を変えるのか』(新潮社)
  • ◎長谷川眞理子(はせがわ・まりこ)

進化生物学者。1952年、東京都生まれ。東京大学理学部卒業。同大学院理学系研究科博士課程修了。理学博士。専門は進化生物学、行動生態学。イェール大学客員准教授、早稲田大学教授、総合研究大学院大学教授・学長などを経て、2023年4月より日本芸術文化振興会理事長。著書に『生き物をめぐる4つの「なぜ」』(集英社新書)、『モノ申す人類学』『自然人類学者の目で見ると』(いずれも青土社)、『進化的人間考』(東京大学出版会)、『美しく残酷なヒトの本性 遺伝子、言語、自意識の謎に迫る』 (PHP新書) など多数。

  • ◎マックス・ベネット Bennett,Max

ニューヨーク市に拠点を置くAI企業Albyの共同創業者兼CEO。ワシントン大学を首席で卒業し、経済学と数学の学士号を取得。同大学では、最優秀経済学優等論文に与えられるジョン・M・オリン賞を受賞した。ゴールドマン・サックスのトレーダーを経て、AIを使用して世界最大手のブランドがマーケティングをパーソナライズするのを支援するBluecoreの共同創業者兼最高製品責任者。同社は最近、評価額が10億ドルを超え、Inc.500の米国で最も急成長している企業に何度もランクインし、2018年のGlassdoorの「働きがいのある会社」リストにも選ばれた。AI関連技術の特許を複数保有しており、進化神経科学と知性をテーマにした査読付きジャーナルに多数の研究論文を発表。2016年、フォーブスの30歳未満の30人のリストに選ばれた。現在は妻のシドニーと愛犬のチャーリーとともにニューヨークのブルックリンに住んでいる。

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