古代日本は、一度滅亡の危機に瀕したことがある。それが、白村江の戦い(六六三)である。 一度滅亡した百済(朝鮮半島南西部の国)の再起を願い、中大兄皇子は無謀な戦いに挑んだ。民衆が「負けが分かっているのに」と罵倒していたにもかかわらず、である。 はたして、倭国軍は、唐と新羅の連合軍の前に、完膚無きまでに叩きのめされた。その時点で、日本列島が、焦土と化す恐れさえあった。幸い、唐と新羅の同盟関係が破綻したことによって、日本は救われたのである。 それにしても、なぜ中大兄皇子は、負け戦に猪突したのだろう。その理由を探るために、少し遠回りをしておこう。 古代史の謎のひとつに、朝鮮半島から、何世紀にもわたって先進の文物が流れ込んだという事実がある。 一世を風靡した騎馬民族征服説に則れば、これは一方的な富と民の流入ということになる。だがこれは、地理と戦略という視点の欠如した誤謬である。「朝鮮半島から日本列島を観なければ、本当の歴史は分からない」と、したり顔で言う人々がいる。なるほど、ならば、朝鮮半島の最南端に立ってみよう。 四世紀から七世紀の朝鮮半島は、高句麗、新羅、百済、伽耶が乱立し、互いに覇を競っていた。弱肉強食の油断のならない緊張に包まれた世界であった。仮に、朝鮮半島のどこかの国が日本列島に触手を伸ばせば、それこそ、隙をつかれて、領土を隣国に奪われていただろう。

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