私利私欲のために天皇を利用すると、ろくなことにはならない。藤原仲麻呂(恵美押勝/七〇六―七六四)がいい例だ。 天平九年(七三七)、藤原不比等の四人の男子が天然痘で全滅すると、反藤原派が台頭し、藤原氏は一気に凋落する。 ところが藤原氏は、雑草のように生き残る。ここで登場したのが、藤原仲麻呂(不比等の孫)だ。仲麻呂は藤原氏の復権を企て、聖武天皇と激突する。 仲麻呂はまず、聖武天皇の息子で、藤原の血を引かぬ安積親王を密殺し(真犯人は分からぬが、仲麻呂がやったことは、ほぼ通説となっている)、聖武天皇を皇位から引きずり下ろすことに成功する。こうしておいて孝謙天皇(聖武天皇と光明子の娘)を皇位につけた。 聖武天皇が崩御されると、仲麻呂は聖武の遺詔(遺言)によって立太子した道祖王(天武天皇の孫)を排除し、自宅で飼い慣らしていた大炊王(天武天皇の孫。舎人親王の子)を皇太子に据えることに成功する。そして仲麻呂は、皇族と同等であるかのように振る舞いはじめた。 さらに、謀反を企んだとして、反藤原勢力を一網打尽にした。彼らの多くは「杖下に死んだ」と記録されている。つまり、裁きを受ける前に、拷問でなぶり殺しにされたのである。これが、橘奈良麻呂の変(七五七)だ。

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