11月4日、スイスのジュネーブで記者会見したアサンジ氏 (C)EPA=時事
11月4日、スイスのジュネーブで記者会見したアサンジ氏 (C)EPA=時事

「殺してもよかったのだが、とりあえず身柄が確保できてよかった」  内部告発ウェブサイト「ウィキリークス」の創設者、ジュリアン・アサンジ容疑者(39)が逮捕された後、在京国際情報筋がそうつぶやいた。やはり、情報機関のプロはそのような思考回路を備えている。あらためて権力の恐ろしさを感じた。  アサンジ容疑者逮捕の根拠とされたのは「性犯罪」。英紙デーリー・メールがスウェーデン検察当局による訴追の経緯を現地からの報道で最も詳しく伝えている。驚いたことに、同紙は「ハニートラップ」の可能性に言及していたのだ。  ハニートラップとは、直訳すれば「はちみつのわな」の意味。情報工作の目標にした人物に対して、性的魅力で誘って陥れたり、スパイに仕立てたりする策略を指すスパイ用語である。2004年上海総領事館員が中国情報機関に女性関係をネタに脅されて自殺した事件が有名だ。  この事件の発端は8月11日、アサンジ容疑者が首都ストックホルムに到着して始まる。彼は女性活動家A(30代)のアパートに滞在、翌12日スウェーデン社民党系の組織が開催した「戦争とメディアの役割」と題するセミナーの基調演説を行なった。その夜、彼はAと性交。  14日には労働組合本部で演説、彼はそこで魅力的な20代の女性Bと知り合う。彼は16日、Bと会い、一緒に首都の西約65キロにある工業都市エンコピングのB宅で一夜を過ごし、夜と翌朝の2度性交。2度目の性交で彼は避妊具の装着を拒否したが、2人は朝食を共にし、それ以後も連絡を取り合うことを約束した。  しかしその後、Bは性病と妊娠を心配し始めた。なぜかAに電話、20日一緒に警察に向かい、事情を話したところ、アサンジ容疑者はAに対しては「性的いたずら」、Bに対しては「強姦」したと担当官は判断した。  2人はさらにタブロイド紙に通報し、事件は22日大きく報道された。だが、検察官は強姦容疑を認めず、一件落着したかに見えた。  ところが、2人は弁護士を雇い、9月から再捜査、結局11月に逮捕状が発行され、国際刑事警察機構(ICPO)を通じて手配された、というわけだ。  アサンジ容疑者の弁護士、マーク・スティーブンス氏は、双方合意の性行為であり、「スウェーデンの逮捕状発行は政治劇」と反発している。  デーリー・メール紙の報道で見る限り、日本の法律では強姦罪は問えそうにない。それどころか2人の「被害者」の行動には不可解な印象がつきまとう。ハ ニートラップの証拠は今のところない。だが、アサンジ容疑者は以前から自分が尾行されていると漏らしていたにもかかわらず性行為に及び、情報機関に弱点を 突かれた可能性は十分あるだろう。  当面の攻防の焦点は、アサンジ容疑者のスウェーデンへの引き渡しをめぐる英法廷での闘争だ。弁護側は引き渡しにあくまで抵抗する構えを示している(法律的には争いが続いており、決着はまだついていない)。  しかし、本当の戦いは、アサンジ容疑者を米国に引き渡すことが可能になるかどうかだ。  実は米国は、アサンジ容疑者がスウェーデンに移送されることを恐れており、英国で勾留されている間に米国への移送をひそかに目論んでいるようだ。  スウェーデンと米国の間にも司法共助協定はある。しかし、政治・軍事が絡む犯罪は適用外で、その上、米国が適用する犯罪と同様の犯罪がスウェーデンにも あることが条件とされている。それに比べて、米英間の司法共助協定は非常に広範にわたることから、米国としては、アサンジ容疑者の英国勾留中に引き渡しを 求めた方が確実、とみているようだ。  エリック・ホルダー米司法長官は適用する法律を検討中としているが、米議会調査局(CRS)の資料によると、スパイ防止法(1917年)だと懲役10年 以下、コンピューターによる政府機密へのアクセスは20年以下などとなっている。ウィキリークスに機密情報を渡したブラッドリー・マニング上等兵(23) に適用する法律との兼ね合いも問題になりそうだ。  いずれにしても、ウィキリークスが起こした事件は米政府の機密システムに深刻な問題を投げかけた。彼らは汚職追及の内部通報組織ではなく、反戦運動組織 でもない。彼らは政府の機密システムと戦う、言わば「サイバーアナキスト」なのだ。事実、世界各地にいる仲間の中にはアナキスト的な政治家もいる。  民主主義代議制度下で認められてきた機密制度が認められなければ、特に安保と外交の運営は難しい。米中央情報局(CIA)がハニートラップ工作に出てもおかしくないかもしれない。

記事全文を印刷するには、会員登録が必要になります。