水俣病、30年かけた徹底解明

執筆者:中川一徳2001年9月号

元チッソ社員と科学者の二人は、人生を賭して原因を突きとめた 人は晩年、かつて関わりを持った痛恨事といかに向き合うのか――。ここ十数年の日本経済における失敗の連鎖を見ても、なぜ、どこで、どう間違えたのか、本来語るべきはずの真の責任者による検証作業は皆無に等しい。 二十世紀、最大にして最悪の公害事件となった水俣病でも事情は同じだった。チッソ水俣工場から、どのようなプロセスと仕組みで原因物質のメチル水銀が排出されたのか、またどのような循環をたどって人に摂取されたのか、徹底解明されるべきその多くが謎のまま残された。メチル水銀を排出したチッソと、対策を怠り被害を隠蔽し続けた行政、この両者からの科学的な検証は発生から五十年近く経った今日にいたるも、全くなされていない。 しかし、こうした検証を引き受けることを三十年前に心に決めた二人の男がいた。一人はチッソ労働組合の委員長だった岡本達明氏(六六)、もう一人は化学工学の専門家で当時、東大助教授だった西村肇氏(六八)である。二人がそれぞれに歩み、共同して検証にかけた気の遠くなるような濃密な年月をたどってみたい。「チッソ労働者の唯一生きる道」 東大法学部卒の幹部候補生として岡本氏がチッソに入社したのは一九五七年、時代は高度経済成長の入り口に立ち、水俣で劇症患者が発生して四年後のことである。当時、水俣病は奇病として扱われており、熊本大学研究班が有機水銀原因説を唱えた五九年以降もチッソは頑強にそれを否定し続けた。

記事全文を印刷するには、会員登録が必要になります。