「リッパナ キョウサンシュギシャニナッテ ニッポンニ カエッテクル」 川越史郎の友人である原後山治は終戦直後、シベリアの収容所に入っていた川越からカタカナで書いたこんな手紙を受け取った。 初年兵の川越は鹿児島の第七高等学校に入学して間もなく召集、旧満州で敗戦を迎え、ソ連に抑留された。二十歳だった。そこで日本人の民主化オルグに見いだされ、奥地の収容所から州都ハバロフスクの収容所に移され、社会主義教育を受けた。手紙は恐らくそのころ書かれたものだったろう。彼は帰国後日本の「民主化」、つまり日本を赤化するための先兵となることを心に期していたのである。しかし、結局はソ連に残って「日本民主化」の仕事をすることになる。 最初、日本新聞社でインターンのようなことをした後、モスクワ海外放送のハバロフスク支局で働くことになった。日本新聞は関東軍捕虜将兵の機関紙として刊行された新聞で、編集長はイワン・コワレンコ中佐だった。コワレンコはその後、モスクワに戻り、党中央で対日工作を担当、戦後日ソ関係の「闇の司祭」と呼ばれた。 支局勤務時代、ハバロフスク裁判の翻訳作業を手伝ったこともある。これは旧満州で細菌戦争を準備していた石井四郎部隊長の率いる第七三一部隊の犯罪を裁くためのもので「幻の極東裁判」と言われた。石井部隊が行なった生体実験の医学資料は戦後米国が持ち去り、この件は闇に葬られた。ソ連はそれを世界の前で暴露しようとした。川越の仕事は、七三一部隊に関する手書きの資料を日本語の分かるロシア人にわかりやすく説明することだった。あらためて戦前の日本軍国主義のおぞましさを思い知らされた。

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