みずほグループを揺るがすシステム障害の原因には、“興銀ファクター”があった。九九年八月に経営統合を打ち出した第一勧業、富士、日本興業の三行は、行内の資金の流れを管理するシステムを、勧銀のものをベースに開発することに決定。自行のシステムに自信を持つ富士銀がこれに反発し、「富士を救ってやった」意識の強い勧銀との間で冷戦が始まる。 この時点での統合のオブザーバーは米系コンサルティング会社、ATカーニー。勧銀と富士銀のシステムは甲乙つけがたしと評価し、両者の対立を深めて、二〇〇〇年八月、業務から外れるのだが、後任として間に入ったのは、統合三行の一角、興銀だった。 元来、M&A(合併・買収)の支援は興銀の業務のひとつ。「ライバルのATカーニーに自行の内幕を覗かれるのが嫌で、勧銀と組んで追い出した」とも、「カーニーの幹部や担当者に、頭の上がらない日銀や見下していた長銀の出身者のいることが我慢ならなかった」(みずほ関係者)とも言われる。 その後、興銀は漁夫の利を狙って勧銀と富士銀の対立を放置したとみられ、アドバイザーぶりは見事、システム障害に結実した。

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