「ローマ人の物語」は、まるで大河小説である。膨大な史料から集めた情報によって壮大な歴史空間を再現する。司馬遼太郎作品がそうであるように、登場人物はいまに通じる。だから多くの読者は、そこに現代日本を読み取ろうとする。十一巻目の本書は、ローマの「終わりの始まり」に入る。日本のいまを憂う読者には最も読みたい部分である。 著者の塩野七生氏は「魚は頭から腐る、と言われるが、ローマ帝国も、『頭』から先に腐って行くのだった」と本書を結ぶ。「頭」とは指導者であり、矜持を持った指導者がいなくなってローマの終わりが始まる。哲人皇帝マルクス・アウレリウスから実子コモドゥスへの帝位継承がきっかけだったのは皮肉だが、ここに歴史の真実があるように思える。完全無欠の指導者はいないし、時代と指導者のミスマッチも自然なのだろう。 だからといって、それをそのまま認めるのは歴史に学ぶ態度ではない。指導者論としても読めるローマ史を書き続けてきた著者の意図でもないだろう。歴史に学ぶとは同じ過ちを繰り返さぬことだとすれば、いま本書から学ぶことは何か。読者のひとりとしては、少なくとも次の二点が重要に思えた。 第一に、通俗的な意味でのエリートの弱さである。マルクス・アウレリウスは、高い資質ゆえ、純粋培養に近いエリートとして育てられた。皇帝に就任する前、ローマ帝国の属州や辺境を体験していない。体は丈夫ではなかったし、皇帝在位中は戦役が相次いだのに、前線で書き残した「自省録」は、戦役にまったく触れていないという。

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