「ヤミ市の雄」だった人々

執筆者:徳岡孝夫2003年1月号

 これは昔われわれが、コリアンを差別したかどうかとは別の話である。差別した、強制連行したと言いたい人は、言い続けて下さって結構である。 戦時中の私は旧制中学(五年制)の生徒で、勤労動員され西大阪の鉄道局倉庫で働いた。何度も空襲を受けた、危険な軍需産業地である。学校として行くのだから、断るすべはなかった。手っ取り早く言えば強制連行だが、今日に至るも私は抗議や賠償請求をしていない。国家は総力戦の最中だし、国民が生命の危険を冒すのは当然である。ついでながら、当時コリアンも日本国民だった。 ここで私が話したいのは、戦中ではなく戦後のことである。戦争が終わったとき、大阪駅前は焼野原になっていた。昔は旅館が並んでいた。旅館に泊まらぬまでも、座敷に通って着替え休息し食事する旅人が多数いた。今日ではメルヘンチックな乗物だが、昔SLの牽く汽車に乗ると、襟元が煤で真っ黒になった。長距離を行く者は途中下車して旅館に寄り、下着を替える必要があった。 焼野原の大阪駅前は、みるみるヤミ市になった。大阪はコリアンが多い。彼らは「無主の土地」を闊歩した。はじめ地べたにムシロを敷いて煙草の手巻き器や真鍮のパイプを売り、やがて小屋掛けしてドブロクや「進駐軍の粉」で焼いたパンを売った。怒ると「敗戦国民ナニユウカ!」と軍靴で蹴った。当時すでにサッカーの足技に長けていた。日本人は、蹴られている同胞を見て見ぬふりした。

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