「金正日訪中」の裏側にあった中国の圧力

執筆者:平井久志2004年6月号

三年ぶりの訪中と、帰国直後に起こった大爆発事故。二つの出来事は北朝鮮とそれを取り巻く周囲の状況を変えるのか――。[ソウル発]金正日総書記の三年ぶりの非公式中国訪問の直後に、北朝鮮では死傷者約千五百人を出す列車爆発事故が発生した。あまりのタイミングに金総書記暗殺未遂説まで飛ぶ中で、事態は予想外の方向へ進みつつある。 一九九四年の金日成主席の死後、ぎくしゃくしていた中朝関係は、九九年六月の金永南・最高人民会議常任委員長の訪中で関係整理を行ない、二〇〇〇年五月と二〇〇一年一月の金正日総書記の非公式訪問でほぼ関係を修復した。 しかし、数十万人が沿道に歓迎に出るなど表面的には親密さを演出した二〇〇一年九月の江沢民総書記(当時)の訪朝は、中朝が対米関係での大きな認識の差を克服できず、発表では対米問題への言及がないという形で立場の差を露呈した。「中朝両党、両国間の高位級交流と往来の伝統維持」を確認したものの、「高位級の往来」はその後、事実上、途絶えた。 江総書記の訪朝直後に発生した九・一一米中枢同時テロ以降、対米姿勢の差はさらに拡大した。北朝鮮の内閣などの機関紙「民主朝鮮」は二〇〇一年十二月八日付で、米中枢同時テロ以後の米国の軍事行動を非難する論評の中で「かつて米国に対する一つの極を自任し、米国の独断と専横に対抗していた大国たちが、今日では『反テロ』連合に取り込まれ、米国の指揮棒に従って右往左往している」と中国やロシアを公然と批判した。二〇〇二年十月には、北朝鮮が新義州特別行政区長官に任命した楊斌氏を中国が脱税などの容疑で逮捕し、中朝間の摩擦はさらに激化した。

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