宗教的非寛容

執筆者:徳岡孝夫2015年2月6日

 人が走り、跳び、投げ、持ち上げる。個人がその能力を競い、勝者が月桂冠を戴く。競技が終わったら、みな友達。

 胸中ひそかに「我が国のメダル数は」と勘定しているくせに、現代人はそういう「五輪神話」に取り憑かれてきたのではないか。

 

 だが実は、オリンピックは、政治的な国際関係と密接に繋がっている。1964(昭和39)年の東京五輪も例外ではなかった。

 当時インドネシアの国父で大統領であったスカルノは、1949年に建国して北京に首都を置いた毛沢東の中華人民共和国と親密な関係にあり、中華民国(台湾)やイスラエルの参加する国際競技会はボイコットするという態度だった(私の所属する新聞社も、東京五輪の頃は中華人民共和国を「中国」とは呼ばず、「中共」と書いていた)。

 スカルノは東京五輪と同時期に新興国の代表を集めた新興国の競技会を催そうとし、もちろん「五輪大切」の日本は反対した。

 こうしたいざこざがあって、インドネシアは東京に代表団を送ったが、開会式には参加せず帰国した。

 

 そのとき五輪に先立って、私はギリシャの古代五輪開催地オリンピアとインドのカルカッタ(現コルカタ)を結ぶ道路上にいた。国産車3台と6人の日本人から成るコンボイを率い、行く先々で東京を宣伝しながら「東京はこれほど準備できていますよ」と誇示するのが目的で、私はその隊長だった。むろん「スカルノの五輪」を潰すのも我が目的の一部だった。

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