消えたタテカン

執筆者:徳岡孝夫2015年10月14日

 よく知る月刊誌編集者が、早稲田の先生への原稿依頼だろうか、久しぶりに早稲田大学へ行ってきたと言う。私はすかさず問うた。
「タテカンやなんかで凄かったでしょう。時が時ですからね」
 ところが、彼の返事は私の意表を衝いた。
「それが、なかった。キャンパスを見回しても、ほとんどタテカンがない。アジ演説してるヤツもいない。キレイなもんでした。今回の安保法制反対運動に、学生たちは欠席しました。なぜでしょう。不思議ですね」
 あの立て看板が、早稲田の構内になくてどこにあるのか。信じられないことだった。

「1960年の安保反対」が樺美智子さんの死を合図のようにして終わり、私はその1カ月後に横浜から海路アメリカの大学院へ、留学に旅立った。
 幕府の条約批准書を携えた77人のサムライが、チョンマゲに二本差しの姿で横浜を船出した万延元年から数えて100年。私の米国留学は、なお日本男子畢生の事業だった。
 私の行先はシラキューズ大学といって、ニューヨーク州中部の湖水地帯にある大学町。そこの大学院だった。
 学期が始まって間もなく、コルゲート大学とのフットボール定期戦があった。年来の好敵手で、その年はシラキューズ側が迎え撃つ番だという。
試合の前日、我が校キャンパス中央芝生の向こう側に、100メートルはあるデカい横長の看板が立った。
「コルゲート歯磨きを使った10人のうち9人はムシ歯になった!」
 コルゲートは、全米で最も知られたチューブ入り歯磨きである。それに引っ掛けて試合相手の弱さを野次っている。だが、あーあ、ここにもタテカンがお出ましなのか。私は思わず苦笑した。

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