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投稿者:nekosuki2015年10月17日17時38分
政治家が軍事的知見不十分なままで、安全保障法制の在り方を議論することがいかに空疎であるか、的を射た指摘であると思います。”空疎”であるどころか危険でさえあると言えます。銃器の安全な使い方もよく知らないままに武器を振り回していると同じことだからです。
これは与野党議員に共通して言えることです。自衛隊を動かす立場の政府・与党には特に弁えていただきたい。野党も門外漢でいられるはずもなく、政府とは別に軍事的合理性の判断が適切か、法的制御の範囲内に収まっているものか検証し、指摘することが責務であるように思います。与野党によるそうしたことで実質的なシビリアンコントロールが可能となるのではないかと思います。
ところで、林氏は「勝利すれば軍事的合理性行使の正当性が謳われる」と書いていますが、むしろ軍事的合理性を欠くような戦争では勝利はおぼつかない。そのような戦争に国民を導いてはならない、ということではないでしょうか。その良い例は旧日本軍による戦争指導のように思います。
素人目での理解ですが、剣術を極めた剣豪は、むやみに刀を抜かないし、振り回しもしない。彼我の力の差、置かれた状況などをよく見極めて、最良の答えを見出して全力でことに当たる。勝負はその結果である。仮に有利だと思える戦争でも国民、国が負うことになる負担(コスト)の大きさを考慮すれば、軍事力に打って出ることに合理性があるのか、突き詰めればそのようなことではないでしょうか。
もし東京裁判を日本人の手で行うとすれば、裁かれることは日本人を苦境に導いた軍事的非合理性はどこにあったのか、そして誰に帰するのかということのように思います。
古来より日本人は、軍事的合理性という言葉は知らなくても、その意味するところはよく弁えていたように思います。これは日本人にとって全く未知の世界の話ではないように思うのですが、いかがでしょうか。
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投稿者:bizenkiyomitsu2015年10月17日02時21分
「軍事的合理性」とは、「目的」の高度さと、使用される「手段」の間の「目的整合性」と解釈するべきでしょう。即ちサザエさんで例えるなら、「お魚喰わえた野良猫」を「裸足で追いかける」のは在りでしょうが、散弾銃を撃ちまくるのはNGと言うことです(目的に対し手段が過剰)。或いは、その真逆で、過剰な規制(「裸足で追いかける」のもNG)を廃すると言う意味です。

クラウゼヴィッツが「戦争論」で述べているように、軍事的手段は戦争の本質である「闘争」と言う観点から、その行使は無制限に烈度を高める可能性があります(或いは、「戦場の霧」により制限される事もあります)。そして、その烈度を決定するものが政治であり、政治目的の高度さです(これが「シビリアン・コントロール」の本質のひとつです)。

また、孫子が述べているように「兵は死生の地、存亡の道」です。そこには武力行使に於ける大義名分(即ち正統性)が当然に求められ、「無名の師」(大義名分の無い戦争)は排除されるべきものとされています。即ち、正統性の在る戦争に於いて勝利することが我が国には求められる、と言うこととなります。

つまり「軍事的合理性」とは、「やりたい放題」の「無制限の武力行使」とは全く異なる概念であり、我が国は明確な「国益」「政治目的」の定義と、それらとの「目的整合性」の範囲での「武力行使」を、明白な「正統性」の基で行使し成功させなければならない、と言う高いハードルをクリアする事を求められると言う事となります。

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投稿者:ygn482015年10月21日16時07分
今回の安保法制の議論が、社会党全盛時代のような「神学論争」に終始したことについては、やはりマスコミ、とくにTVニュースを中心とするワイドショー・ジャーナリズムの責任が大きかったと思います。あえて合理的な議論を封じ、情緒的な言動を煽った背景には、「どうせ視聴者はバカだから、戦争法案とか徴兵制とか違憲といったキャッチコピーに乗ってくるだろう。」といった、盛り上がりさえすればなんでもいいという方針がいまだに強固であることが窺えます。「フォーサイト」のような良心的なメディアの存在価値をあらためて認識させられました。
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投稿者:maruma2015年10月17日16時01分
「軍事的合理性」には複数の定義があるのでしょうか。
筆者が「軍事力行使に最も重要な要素は、殺傷と破壊を厭わない「軍事的合理性」である。それは戦いを有利に導き任務遂行を図るために必要だが、時に社会秩序や人道との乖離を導く。」という文面で言及している「軍事的合理性」は、軍事の最終目的である勝利に向けて、いかなる行動も厭わないこと、と私は読みました。

それに対して、bizenkiyomitsuさんの言及されている「軍事的合理性」は、個々の軍事的行動の目的に対して目的に見合った行為を取ることと読め、異なるもののように思えます。

筆者の言及する「軍事的合理性」は、「やりたい放題」というよりも、「最終目的のためであればいかなる行動も選択しうる」ことのように思えます。
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投稿者:bizenkiyomitsu2015年10月18日23時30分
すいません、昨夜の投稿は酔っぱであった為、文脈が混乱してしまいました。

「軍事的合理性」の定義は一つです。即ち、如何に「効果的・効率的に敵を撃破、軍事行動の目的を達成するか」です。

しかし、ここに於いて戦争と戦闘の分類、或いは性格の異なる二つの戦争の存在により、「軍事的合理性」は様々な側面・性格を示します。

即ち、戦争のレベルに於ける「軍事的合理性」は政治の制約による戦争目的・性格(絶対的戦争・現実的戦争)、「戦争の摩擦・戦場の霧」により、その手段・烈度は制限を受けます。

しかし、戦闘のレベルでは、より「戦闘に勝利する」と言う軍事的要求が前面に出ることにより、「効率的・効果的」な軍事行動の目的達成と言う側面が強調されます。

ただ、ここで林さんの言われる「軍事的合理性」とは、上記の様な軍事常識の世界の議論だけではなく、我が国固有の「夢想的・非現実的平和主義」との決別と言う意味も含むと解釈するべきでしょう。

即ち、「機関銃は1挺迄ですか、2挺迄ですか?」といった「バナナはおやつかデザートか?」的議論や、「撃たれるまで撃っちゃダメ」や、「隣の部隊が攻撃されても、自分達が攻撃されなければ助けちゃダメ」とか言う、一般「軍事常識」を無視した「過剰な武力行使への規制」です。

火力は強力である方が有利であるのは当然で、撃たれる前に撃つ、友軍は支援するも議論の必要も無い「軍事常識」です。
投稿者:外天2015年10月22日15時16分
bizenkiyomitu様 ygn48様 追記
今政治家および官僚の一番学ばねばならぬことは、かっての英国紳士制度だろうという気がします。
「ボカァ天下り準備省のほ~にいるから充分にシンシだ」というのは亡国の科挙“進士”の間違いであります。
 英国紳士制度というのは大植民地帝国であった頃、通信にも月余を要するような僻地をごく少数の官僚の派遣と、もしそれに逆らえば後日大艦隊が押し寄せてくるかもということだけを担保に見事に支配したそのために育成された人材のことを言うのです。 その教育たるや死人けが人が出るのは当然というすざまじいもので、その深さは比類のない深化した教養までも含み、結果対するものに敬服の念を抱かせざるを得ない風格をも得たといわれます。 わが国の“紳士”の概念は残念ながらこの外見の真似だけにとどまっています。 もちろんROEどころかそういう発想そのものが個性に押し込まれます。それをコモンセンスと呼ぶのです。「ジョーシキだろ?」とは違います。ちょっと考えると「そんなのが権威権力におぼれていい気になったらどうするの?」ということがありますが、まずそれはなかったようです。  国王陛下の前頭葉がフルコピーされているに近い教育課程を経ていたからです。
 日本は英国同様基本は小国であり、発展するには競争や紛糾は避けて通れません。
 神学的に「それはイケナイ」を繰り返していると、内外両面から痛い目にあいます。

 瀋陽領事館事件の時の外交官の対応「衛星電話で指示を仰いだけれどもつながらなかった」事件が
いかに非紳士の行動だったか。 国際的な侮りを受けるということはそういうことです、結果それが危害を招くのでしょう。
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投稿者:naturalist2015年10月23日22時10分
哀しい人間の性に起因する争いが常に地球上にある限り、少なくとも自己防衛の必要はあります。時が経つにつれて、いつまでもアメリカに全面的に頼るのが難しくなっている今、林さんの記事に強い衝撃を受けつつも真剣に考えざるを得ませんでした。
 軍事講師に最も重要な要素は殺傷と破壊を厭わない「軍事的合理性」である。
 クラウゼヴィッツによると、戦争は政治上の目的を達成するために他の手段を以ってする政治の継続である。
 敵を圧倒する武力行使は社会正義や道徳、秩序、人道と相反するものと理解しておかねばならない。
ここで疑問が生じました。軍事的合理性の裏付けによって戦争正義が確立された戦争が負けた場合は、勝てば官軍、負ければ賊軍と片付けられるのでしょうか?(続く)
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投稿者:naturalist2015年10月23日22時32分
第二次大戦に愚かに突き進んで敗北した日本はもう戦争はこりごりという思いでアメリカの傘の下で70年を過ごしてきており、当然「日本国民の殆どは軍事的合理性の法的制御やそれが社会的モラルを超えるという性格に気付く機会がなかった」のです。対照的なのはナチの占領下から連合軍に助けられて戦勝国の仲間いりをしたフランスで、ロンドンから凱旋したドゴール将軍は軍備を強化して持ち前の外交力を以って独自の道を歩んでいます。日本は武力を上回る外交力を身につけて国民を戦火にさらすことのない道を歩んで欲しいと思います。以上をわきまえたうえで最後の「非国家主体が加わった。。。。。」の結びに同意します。
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投稿者:AprilHare2015年10月14日22時50分
政治家の軍事的見識を危ぶむ意見には賛成です。
     
 ただし、私は少数派かもしれませんが、与党政治家の見識を危ぶんでいます。
 先日も安倍首相が「軍事的合理性がないから徴兵制の心配は不要」と言っていましたが、現実に東アジアの国の多くは広義の徴兵制(軍事訓練や戦時徴兵に備えた登録を含む)を実施しています(※)。
 実際には軍事的合理性があるから実施しているのか、別の理由で徴兵制を実施しているのかは知りませんが、心配不要という結論は現実に即していません。

※韓国:男性26~30か月の徴兵制
北朝鮮:10年の徴兵制
ロシア:男性1年の徴兵制。破綻しかけているが廃止されていない
中国:志願兵不足の際には選抜徴兵制で補充予定
台湾:4か月の軍事訓練(2015年の廃止予定は2017年に延期)
アメリカ:徴兵そのものは停止中だが、選抜徴兵登録制は維持されている

 一方、野党政治家の軍事的見識が同レベルに貧しいとしても、私としてはそれほど注目していません。
 権力が少なければ不見識が実害をもたらす余地もその分少なくなりますし、見識が貧しくて支持者数も少ないのはある意味妥当です。与党政治家の問題に比べれば危険度や優先度は落ちます。


>かつての我が国でもそうだが、徴兵制は、国民に対して国防や、そのための戦闘について軍事的教育訓練を課して戦争に関わる認識を植えつける役割を果たした。従ってその経験を持つ政治家が戦争、軍事について空理空論にはしることもなかったし、戦争に対する国民の覚悟には説得力が働いたはずである。

 徴兵制による教育機能や個人的リスクの近さがもたらす覚悟を過大評価しているように思います。
 そもそも、徴兵制が不要ないし自滅的な戦争を抑止した実例というのは、どれくらいあるのでしょうか? 抑止できなかった実例なら、日本の対米開戦やアメリカのベトナム戦争などがあります。
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投稿者:maruma2015年10月15日00時03分
「軍事的合理性」は不覚ながら知らなかったのですが、「戦争になったらなんでもありになるぞ」ということですよね。
戦争反対を叫ぶデモ隊の主張が本当になるかどうかは、その軍事的合理性が、シビリアン・コントロールを凌駕するレベルになってしまうかどうかということなのかと思いました。
ただ、主体的か偶発的かは問わず、世界レベルで紛争に巻き込まれていったときに、どこまでシビリアン・コントロールが効くのか疑問です。今の政府だと、自衛隊独走というよりもむしろシビリアン・コントロール側が戦争に靡くような気がしますね。
ただ、まあ、今のところ、日本は中国との関係だけ戦争に至らないようにしていれば、それほど大きな戦争に巻き込まれることはないのではないでしょうか。
東洋の東の端の国で良かったなと思いますね。
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投稿者:bizenkiyomitsu2015年10月18日01時06分
marumaさん、

まず、クラウゼヴィッツの「戦争論」の入門書をお読みになることをお勧めします。

林さんが言われる「軍事力行使」の場合の「殺傷と破壊を厭わない」武力行使は、あくまで「戦闘」における武力行使と理解して下さい。「戦争」と「戦闘」は明確に分離され、全く異なる存在として理解されねばなりません。

クラウゼヴィッツは「戦争論」の中で、武力行使の烈度を制限する「戦争における摩擦」や、「無制限な武力の行使」による「敵国の完全なる打倒」を目的とする「絶対的戦争」と、政治的・外交的優位を目的とする「限定された武力の行使」による「現実的戦争」の二つの戦争形態について述べ、「二つの戦争」の性格の明確な区分の必要性を強調しています。

さらに林さんは「戦争は政治上の目的を達成するために他の手段をもってする政治の継続である」と言う、戦争の「政治・外交目的の達成手段」としての戦争の性格を本文で述べて居られます。

即ち、「戦争」には異なる形態が存在し、武力行使の烈度は「戦争」の性格により定義されます。しかし、「戦闘」に於いては一般的に「戦闘」に勝利する事が優先され、武力行使の烈度は問題とされません。(近年はうるさくなって来ていますが)

まず、戦争に関する基礎知識を学ばれる事をお勧めします。「戦争」も立派な「社会科学」としての存在であり、用語の定義も明確になされており、それらの知識無くしては議論が成り立ちませんので。



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投稿者:maruma2015年10月18日08時46分
「軍事的合理性」には複数の定義があり(あるいは状況が異なることで、その具体化された意味合いが変わるもの)と理解しました。bizenkiyomitsu さん有難うございました。
クラウゼビッツ戦争論は私も学生時代に読んだことがありますが、確かに体系化された記述だったかと思います。昔の書物なので体系的な名著だとしても、現代の戦争にどの程度適応できるのか、その頃から、現代の戦争には昔はなかったような要素はないのかどうか考えたことを思い出しました。
現代であれば、経済的な相互関係がより緊密になっているとか、大量破壊兵器が現出しているとか、サイバー空間とか、イスラムの問題とか、環境はより複雑な様相を呈しているかと思います。
現代の戦争論で優れたものにはどのようなものがあるでしょうか。
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投稿者:bizenkiyomitsu2015年10月19日00時02分
尚、現代の戦争論ですが、確かに色々と議論は在ります。しかし冷戦中は「相互確証破壊戦略」に基づく「核戦略」が主流でしたが、特に21世紀に入ってからの「核兵器の拡散・非対称的紛争」の拡大により、新たな「戦争論」の登場、確立が求められているのでは無いでしょうか。

私としては、例えば芙蓉書房の「戦争論体系」にある様な、軍事戦略の古典をまずお読みになっては?と思います。何故ならば、戦争・戦略の基本的性格・要求は不変と私は考えます。確かに技術革新により、戦場の空間・速度は変わりましたが(三次元へ、宇宙へ、サイバー空間へ)、「政治の延長としての戦争」・「絶対的戦争と制限的戦争」・「平時からの戦略拠点の確保」・「絶対的優勢に対する局所的優勢」・「兵站の重要性」・「大義名分の確立」と言った様な点は、孫子の時代から変わることは在りません。

成る程、軍事学にも流行り廃りはありますが、その本質は不変かと存じます。
投稿者:外天2015年10月22日14時49分
bizenkiyomitu様 ygn48様
安全保障論についていちばん問題がありそうなのは、日本人がマニュアルなしで、むしろその方がいい仕事ができるという特性にあると思います。  これはとても優れた民族性なのですが、戦闘・戦争行為などのように重大な行為であり結果が大きい行為の場合は,個人の判断にはためらいや間違いが付きまといます。 軍隊というほどの組織には必ずROE(Rule of Enforcement)が確立しており訓練も責任もそれに基づくことになっています。実力行使基準と言いますが平たく言って発砲基準です。 もっとも簡単な例を挙げますと「侵入者に対してどういう停止命令をどのように出すか。それに従わないことはどうやって確認し、どの時点で殺傷発砲するか」ということを、規定し訓練を通じて第一線に徹底的に浸透させておくのです。 二者択一くらいしか現場の判断要件は織り込まれません。 第一次湾岸戦争の時に米軍は民間機を誤射撃墜しましたが、後日関係者に聞きましたら「軍事法廷にあげられた。問われたのはいかに忠実にROEを実行したかであって、民間機を撃墜したのは遺憾だなんて話は全くなし、結果はもちろん無罪」でした。 わが国の前大戦の指揮は指導者層に分野ごとの目的に基づいたROEの観念がなく、まるきり将棋気分で内側を向いて(内政権力争い)作戦指導をした連中がいたことであろうかと思います。「道理で上層の逃げ足は速いわ」では笑い話にもなりません。 そういう間違いを封じるためにもROEは必須です。
 「キッカンジュウ!。ギャーッ!。いけない!」に終始するのが実はやむを得ない次元段階で、両面から一番危険が大きいのですが。
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投稿者:bizenkiyomitsu2015年10月18日01時32分
記述が不十分でした。つまり、「軍事力行使に最も重要な要素は、殺傷と破壊を厭わない「軍事的合理性」である。」は、政治・外交的手段・延長としての戦争が、政治の要求により発動された場合の武力行使の原則で、「最も効率的に敵兵力を殺傷し、最も効率的に敵戦力を破壊する」事であり、それを制限するものは戦争目的と、戦時国際法上の規程となります。
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投稿者:sanma2015年10月13日18時51分
筆者のシビリアンコントロールへの不安、軍事的合理性についての念押しについては理解できた。そういうことだろうと。
<戦争正義の確立が無ければ善玉たり得ず・・・、勝利すれば軍事的合理性行使の正当性が謳われる。>とは、平たく言えば、「勝てば官軍」ということでしょうか?