長野県須坂市にある、高句麗系の積石塚古墳(筆者撮影、以下同)

 

 前回(2017年11月9日「世界記憶遺産『上野三碑』が物語る『蘇我vs.藤原』抗争」)に続き、東山道(とうさんどう)にまつわる話をしておきたい。今回の舞台は、信濃(長野県)だ。

 私事ながら、つい最近、松本市で講演をしてきた。呼んでくださったのは松本市岡田の方々で、地域の歴史資料をかき集め、冊子にまとめられ、その記念講演という形だった。

 演題は「なぜ天武天皇は松本に副都を築こうとしたのか」。ほとんど知られていないが、7世紀後半、律令制度が整えられる中、新益京(あらましのみやこ=藤原宮)とは別に、難波(なにわ=大阪市)と信濃に、副都計画が持ち上がっていた。難波は瀬戸内海の海の道を管理するためと理解できる。不思議なのは、なぜ突然信濃が注目されたのかである。その理由を考えていこう。

「馬」の重要性

 天武12年(683)12月に、天武天皇は難波に都を造ろうと思いたち、さらに天武13年(684)2月には、使者を信濃に遣わして地形を視察させた。副都を造ろうとしたようだ。天武14年(685)10月には、役人を信濃に遣わし、束間温湯(つかまのゆ)に行宮(あんぐう)を造らせた。(『日本書紀』)

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