エルサレム問題は何が「問題」なのか

執筆者:池内恵2017年12月8日
 

 エルサレム問題とは結局何が問題なのだろうか。トランプのエルサレム首都承認をめぐって、英語でも日本語でもそれなりに解説がなされているが、隔靴掻痒の感が否めない。少なくともトランプの演説からは、問題の所在は認識していることが明らかだ。認識した上で、イスラエル寄りの立場を可能な限り取ろうとし、しかしそもそもどちらの立場を取ろうとも解決があまりに困難であることは認識しており、問題解決の困難さから目を逸らすための方法を探っている。その方法はそれなりに巧妙である。少なくとも、単に乱暴な大統領が単に乱暴な議論をしたというだけではない。政治・外交的な手法として乱暴であると批判することはできるが、エルサレム問題についての認識自体は、多くの当事者に共有されたものに則っている。トランプの政策を批判するにしても、問題の所在と構図を理解してからにしたほうがいい。

 12月6日にトランプが行ったエルサレム首都承認宣言それに伴う演説で、鍵となるのは、米国がエルサレムを首都と認めるとして、それでは即座に大使館の移転を実行するか否か、神殿の丘を含む旧市街の宗教的な「ステイタス・クオ」を維持するかどうか、そしてイスラエルの首都として承認する範囲を「西エルサレム」などといった形で限定し、逆にパレスチナ国家の首都を「東エルサレム」に置くことを可能とするかどうかだった(池内恵「トランプは演説でエルサレムと「東エルサレム」を分割できるか」12月7日0時45分も参照)。

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