鹿児島人の美意識に学ぶ

執筆者:上昌広2021年3月5日
鹿児島は古来、人材育成に生残りを賭けてきた

 

 2010年から毎年3月に鹿児島を訪れている。今年も3月6~7日に予定している。鹿児島訪問は、筆者に日本の将来を考える機会を与えてくれる。

 幕末、日本は閉塞していた。中国などアジア諸国を植民地化した西洋列強に怯え、国内は大混乱に陥った。このあたり、高齢化、人口減、さらに中国の躍進に自信をなくす現在の日本人に通じるものがある。

 幕末の閉塞感を打破し、近代日本を築いたのは薩長の志士たちだ。なぜ、彼らが日本の危機を打開したのか、本稿で考察したい。

 私が鹿児島を訪問する目的は島津義秀さん、その長男である久崇さんに野太刀自顕流(通称薬丸流)の稽古をお願いすることだ。

 島津義秀さんは、加治木島津家の第13代当主だ。加治木島津家は、戦国時代に「鬼島津」と称され、関ヶ原の戦いでは東軍の敵中を突破して退却した島津義弘の遺命により興った島津家の分家だ。一族からは蘭癖大名と言われた薩摩藩8代藩主重豪(しげひで)も出ている。彼が可愛がったのが、幕末の名君斉彬だ。斉彬は重豪の影響を強く受けて成長する。そして、藩主になると、西郷隆盛や大久保利通を抜擢すると同時に、洋式造船、反射炉・溶鉱炉の建設などの集成館事業を興し、薩摩藩の強化をはかった。島津義秀・久崇父子は、日本の近代化を象徴する、このような一族の末裔だ。ご縁があって、私はこの親子と知りあった。

 私は、小学校1年生で剣道をはじめ、大学まで続けた。大学時代は運動会剣道部(東京大学の体育会)に所属していた。島津義秀・久崇父子が野太刀自顕流の使い手で、子どもたちに指導していると聞くと、「是非、体験させてほしい」と申し出た。これが、私が鹿児島を訪問し、野太刀自顕流の稽古に参加することとなったきっかけだ。

「薬丸流で叩き上げた」明治維新

 野太刀自顕流は薩摩藩に伝わる剣術だ。2018年の大河ドラマ『西郷どん』で、若き日の西郷隆盛たちが稽古をするシーンがあったため、ご記憶の方も多いだろう。現代剣道とは全く違う武道だ。

左から島津義秀さん、島津久崇さん(筆者撮影)

 稽古では、左膝をつき腰を低くし、剣を突き上げる「蜻蛉」の姿勢を基本とする。そして、ゆすのきから作った横木を打つ。打ち込みの際には「猿叫」と言われる独特の声をあげる。

 野太刀自顕流は薩摩藩を象徴する武術だ。上級武士が習った東郷重位(ちゅうい)を始祖とする示現流とは対照的に、下級武士の間で広まった。郷中教育と言われる薩摩藩独自の教育体制に野太刀自顕流が取り入れられたことが大きい。

 明治維新で薩摩藩をリードしたのは下級武士たちだ。明治維新の志士の多くが野太刀自顕流を習ったため、「明治維新は薬丸流で叩き上げた」とも言われる。幕末史を彩る様々な事件にも登場する。例えば、1860年の桜田門外の変で井伊直弼を斬首したのは薩摩藩を脱藩した有村次左衛門だ。猿叫の気合いとともに薩摩刀を振り下ろした。1862年に現在の横浜市鶴見区生麦で起こった生麦事件で、馬上の英国人に初太刀を浴びせたのは奈良原喜左衛門だった。野太刀自顕流で「抜」と言われる、刀を抜くと同時に下から切り上げる技を使った。

 明治以降も鹿児島で野太刀自顕流の伝統は引き継がれる。戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が武道禁止令を発し、薬丸本家第13代当主になるはずだった薬丸兼教氏が沖縄戦で戦死した後も、奥田真夫氏らの尽力で伝統は引き継がれた。現在、薬丸本家での自顕流の伝承は途絶えているものの、幾つかの会派に分かれて存続している。島津義秀氏も、その中の1つの会派を主宰している。島津義秀氏は、2003年に設立したNPO法人島津義弘公奉賛会の活動の一環として、自らが神主を務める精矛神社の敷地内に青雲舎道場を設けて後進を指導しているのだ。筆者は、この道場で御指導いただいている。

「郷中教育」という精神的支柱

 青雲舎道場を訪問すると、人間は自らが意識しないところで歴史の影響を受けていると感じざるを得ない。なぜ、淡路島出身の両親をもち、兵庫県で生まれ育った筆者が鹿児島で古武術を体験するのか。それは筆者が幼少期から剣道をしていたためだ。父親が日本毛織(ニッケ)に勤めていた関係で、筆者は2~10才までを兵庫県の加古川で過ごした。その時、近所の子どもを集めて剣道を教えてくれていたのが、兵庫県警の渡邉清先生だった。

 その後、10才のときに阪神間の尼崎市に転居し、神戸市の灘中学に進学する。そして、剣道部に入部した。そこで御指導いただいたのが当時、兵庫県警の剣道師範を務めておられた田中康俊先生だ。兵庫県警で渡邉清先生の先輩にあたる。公務の傍ら、灘中学・高校の道場にボランティアで教えに来てくれた。田中先生は鹿児島の鹿屋出身で、「嘘を言うな」「負けるな」「弱いものいじめをするな」と繰り返された。いまになって思えば、郷中教育の教えだ。年をとってから郷中教育について知った時、既視感があったのは、田中先生から繰り返し聞いていたからだ。

 余談だが、郷中教育は英国のボーイスカウトにも影響を与えたと言われている。1911年、英国王ジョージ5世の戴冠式に参列した東伏見宮夫妻に随行した乃木希典がボーイスカウトの訓練を見学した際、ボーイスカウトの創設者ベーデン・パウエルは「この制度は薩摩の郷中教育を調べ参考にした」と語ったと伝わっている。薩英戦争で英国は薩摩と戦い、明治維新では薩摩藩を支援する。両者には様々な交流があったようだ。

 話を剣道に戻そう。兵庫県で生まれ育った筆者が、鹿児島出身の田中康俊先生から剣道を学んだのは明治維新の影響だ。日本の剣道界をリードする警察剣道の雛形を作ったのは、薩摩出身の川路利良大警視だ。西南戦争の田原坂の戦いで抜刀隊が活躍したことをうけて、警察に剣道を取り入れた。明治維新で失業した武士階級の雇用確保という側面もあったのだろう。川路は西郷隆盛より7才、大久保利通より4才若く、実家は準士分とされる下級武士だ。川路も郷中教育で、野太刀自顕流を学んだ。

 田中先生は1925年に鹿児島で生まれ、幼少時より剣道を学ぶ。1941年に海軍飛行予科練習生となり、敗戦を迎える。戦後の1947年に兵庫県警に奉職し、剣道の腕を見込まれ、剣道師範として活躍する。

 明治以降、鹿児島で剣道が強い子どもたちにとってのキャリアパスの1つが、警察官となって東京や大阪などで剣道家として生きて行くことだったのだろう。田中先生は、まさにそのような成功例だ。

 剣道の公式戦で69連勝して、「昭和の武蔵」と呼ばれた中倉清先生は、1910年に鹿児島県肝属郡東串良村(現東串良町)に生まれ、皇宮警察に勤務した。現在、東京大学剣道部の師範を務める寺地種寿先生も鹿児島出身で警視庁勤務だ。鹿児島は連綿と中央の剣道界に人材を輩出し続けている。

医学界にも人材輩出

 鹿児島からの人材育成は剣道界に限った話ではない。筆者が属する医学界にも多くの人材を輩出している。東日本大震災以降、筆者は福島で活動を続けているが、福島県立医科大学をリードする竹之下誠一理事長は鹿児島出身だ。詳細は省くが、東日本大震災発生以降、迷走を続けた福島県立医科大学も、2017年4月に竹之下氏が理事長に就任し、様変わりした。

 2006年以降、筆者は埼玉県行田市の行田総合病院で非常勤医師として診療しているが、医師不足のこの地域を支えている人の中には、10名を超える鹿児島出身者がいる。出身大学はバラバラだが、鶴丸高校出身者が大部分だ。彼らは定期的に会合を持っている。中心は熊谷市内で開業する池田基昭医師で、その中には埼玉医科大学病院の前病院長である織田弘美医師も含まれる。ご縁があって、筆者も集まりに加えていただいているが、鹿児島と地元の医師たちが有機的に連携しているのがわかる。大相撲の先代、先々代井筒親方が鹿児島県出身ということもあり、旧井筒部屋の部屋頭であった横綱鶴竜関を埼玉県北の医師たちが応援している。筆者もご招待いただき、本場所の千秋楽と井筒部屋での打ち上げに参加したことがあったが、その一体感に驚いた。筆者の周囲での鹿児島出身者の活躍は目覚ましい。

 なぜ、鹿児島という土地からは次々と人材が生まれるのだろう。鹿児島を訪問すると、その理由がわかる。平野が狭く、桜島の火山灰に覆われた鹿児島が生き残るには人材を育成するしかない。古くは島津重豪と斉彬、島津義秀氏の青雲舎、さらに私が剣道を習った田中康俊先生ら多くの人物が、後進の指導に全力を注いでいる。

 このことは鹿児島の伝統と言っていい。その象徴が、鹿児島中央駅の玄関口に存在する「若き薩摩の群像」だ。幕末、国禁を犯し、英国に留学した15名の留学生と4名の使節団を再現している。後の外務卿寺島宗則、初代文部大臣森有礼に混じり、当時13才で後に米カリフォルニアでワイン王となる長沢鼎などの若い時の姿が紹介されている。功成り名を遂げた維新の元勲としての姿ではなく、リスクをとって行動した若い姿だ。現在の鹿児島人が何を尊重しているかがわかる。

若き薩摩の群像(鹿児島県公式HPより)

 ただ、この銅像には問題もある。島津義秀氏は「土佐出身の高見弥一と長崎出身の通訳堀孝之の銅像がありません。こんな狭量なことでは駄目です」という。2007年には群像に2人の追加を求める有志の会が発足し、紆余曲折の末、昨年2月、2人の銅像が追加されることが決まった。
 このあたりの鹿児島人の「美意識」は、最近、世間を騒がせている総務官僚と総理大臣の息子のスキャンダルとは対照的だ。利益を得るため、権力者に迎合することは郷中教育では「卑怯な振る舞い」として最も嫌われる。

 繰り返すが日本の将来は前途多難だ。経済刺激などの小手先の政策で乗り切れるはずがない。生き残るには長期的な視点に立って本気で人材を育成することだ。その際、大切なのは正々堂々と振る舞うことだ。問われているのは人間性だ。鹿児島の先人たちから学ぶことは多い。

【連載一覧はこちらからご覧ください】

記事全文を印刷するには、会員登録が必要になります。