1987年7月、米議会からの反発を受けて、引責辞任の記者会見をする東芝の佐波正一会長(左)と渡里杉一郎社長   ©︎時事

「東芝」という社名にはもはや食傷した読者が大半だろう。2015年以降、次々、噴出する粉飾決算など不祥事、主力事業の切り売り、ガバナンスの劣化をみれば既に日本を代表する名門企業としては幕を閉じたことは明らかだ。世間の東芝への関心は、外国ファンドに命綱を握られ、零落していく“貴種”の行く末を見届けることでしかない。東芝の没落については『東芝の悲劇』(大鹿靖明著)、『東芝 原子力敗戦』(大西康之著)はじめ優れた書籍が数冊出ており、多くが「経営者の失敗」に原因を求め、議論は尽くされた感がある。ここでは、日米経済関係という別の角度から東芝を改めて論じてみたい。国家と産業の狭間に沈んだ名門の悲劇である。

「恐怖」を植えつけた米政府

 1987年3月に明らかになった東芝機械(現芝浦機械)によるCOCOM(対共産圏輸出統制委員会)違反事件は当初、大きく発展する印象は薄かった。東芝の冠がついていても、所詮は子会社の不正にすぎないと思われたからだ。また当時、他にも日本企業のCOCOM違反事件は少なからずあった。外為法違反容疑での警視庁による東芝機械本社の捜索と、通商産業省(現・経済産業省)の規制強化で落着すると、多くの経済人はみていた。

記事全文を印刷するには、会員登録が必要になります。