スサノヲ篇(6)
出雲とタニハの瀬戸内海争奪戦――スサノヲの文明論5
2022年1月30日

淡路島を発って大阪へ向かう船上から北側を望む。このエリアを巡って争いが起きた(筆者撮影)
スサノヲの正体を知るためには、ヤマト建国の真相を明らかにする必要がある。
ヤマト建国のきっかけのひとつは、弥生時代後期に勃発した山陰地方の主導権争いで、出雲とタニハ(但馬、丹波、丹後、若狭)が覇を競い、その争いが瀬戸内海に飛び火した。
本来なら、出雲は新羅やタニハと同じ悩みを抱えていたはずなのだ。朝鮮半島と日本列島をつなぐ航路を支配していたのは北部九州で、出雲も、中国に通交することが困難な「閉じ込められた空間」に位置していた。北部九州沿岸部が航路を独占している間は、山陰地方・タニハ・新羅の発展は難しかった。すると出雲は、北部九州とタッグを組んで、タニハに圧力をかけた。だからタニハは、生き残りのために、知恵をしぼって、南部近畿、近江、東海とつながっていったわけだ。
播磨で繰り広げられた神と人の争い
そして前回、淡路島に注目したのは、この島と周辺一帯が出雲vs.タニハのもうひとつの戦場になっていったからだ。タニハの仕掛けたヤマト建国の成否は、淡路島と周辺地域を北部九州や出雲から奪い取れるかどうかにかかっていた。
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