『キリング・オブ・ケネス・チェンバレン』(配給:AMGエンタテインメント) 9月15日(金)よりヒューマントラストシネマ渋谷ほか全国順次ロードショー (C)2020 KC Productions, LLC. All Rights Reserved

黒人はどこまで無実であれば容赦なく殺されずに済むか1――『キリング・オブ・ケネス・チェンバレン』と警察による暴力の可視化(前編から続く。

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 ケネス・チェンバレンの自宅のアパートの玄関ドアを挟んだ1時間を超える警察官たちとの膠着状態をほぼリアルタイムで描く『キング・オブ・ケネス・チェンバレン』は、玄関ドアの内側(チェンバレンのプライベート空間)と外側(警察官たちが居座る階段の踊り場)とを交互に映し出す。あくまでチェンバレンを襲った悲劇が物語の中心である以上、作り手がどちらに肩入れしているかは自明だが、『キリング』ではチェンバレンの不安や恐れだけでなく、警察官たちの不安や恐れも時間をかけて描かれる。

 警察官をも「人間」として描くことの意義を語るライアン・クーグラーの言葉(※本稿前編参照)を意識していたがどうかは定かではないが、ロッシ巡査として出演しながら、作品の編集と製作をてがけたエンリコ・ナターレは、最優秀観客賞と最優秀審査員賞を受賞した2019年のオースティン映画祭でつぎのように語っている。ミデルが執筆した脚本を改稿していく段階での重要な作業は、警察官たちのなかに人間性を見つけ出すことだった、と。そして、ロッシこそが警察官たちのなかでもっとも「人間性」のあるキャラクターであり、ナターレによれば、ロッシは「もしも (what-if)」の警察官――人間的な警察官があの場にいたならば結果は変わっていたのではないかという「もしも」を体現するキャラクター――なのだ2

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