追悼の花束に「長江と黄河は逆流しない」という言葉を添える人も多かった[広場に供えられた李克強の写真と花束=2023年10月31日、中国・河南省鄭州市]

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なぜ習近平に敗れたのか

 胡錦濤の下で共青団エリートは我が世の春を送ったが、エース李克強の「出世街道」は決して平坦なものではなかった。決定的転換点は2007年10月の第17回共産党大会に訪れた。

 河南省党委書記、遼寧省党委書記を務めた李克強が最高指導部・政治局常務委員会入りするとの下馬評が高かったが、2007年3月に浙江省党委書記から上海市党委書記に就いたばかりの習近平がダークホースとなって急浮上した。

 同時に党内では、李克強が河南省長だった2000年前後に同省の寒村で拡大した売血・輸血によるHIV(エイズウイルス)感染問題や、遼寧省党委書記時代の2005年に起こった214人が死亡した炭鉱爆発事故を取り上げ、李の危機管理を問題視する声が出てきた。ただ、それ以上に共青団のホープとして「胡錦濤の後継者」と早くから内外で見なされ、目立ちすぎていた。1980年代に青年交流で日本を訪れたことのある李克強が書記を務める遼寧省には、日本政治家や財界関係者らが訪れる「李克強詣で」が盛んになったが、李は、「親日」は政治的にマイナスになりかねないと神経を尖らせた。

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