李克強を悼み、1980年代の夢を悼む中国社会――「悲劇の総理」と「皇帝・習近平」の相克(下)

執筆者:城山英巳 2023年11月16日
タグ: 中国 習近平
エリア: アジア
追悼の花束に「長江と黄河は逆流しない」という言葉を添える人も多かった[広場に供えられた李克強の写真と花束=2023年10月31日、中国・河南省鄭州市]
早くから「胡錦濤の後継者」と見なされながら、2000年代に入るといくつかの政治的失点を重ねた李克強。一方、革命第一世代の子弟という「赤いDNA」を持つ習近平は、江沢民と曽慶紅の支持を得た。2人は2007年に最高指導部入りを果たすが、序列は習が6位、李が7位と、ダークホースの習が逆転している。そこには学生時代の自由派知識人との交流が影を落としたのかもしれない。今年3月の全人代で習の望み通り政界を引退した李が、改革開放の継続を求めた「長江と黄河は逆流しない」との言葉を、「悲劇の総理」を悼む人々は1980年代の夢と重ね合わせる。

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なぜ習近平に敗れたのか

 胡錦濤の下で共青団エリートは我が世の春を送ったが、エース李克強の「出世街道」は決して平坦なものではなかった。決定的転換点は2007年10月の第17回共産党大会に訪れた。

 河南省党委書記、遼寧省党委書記を務めた李克強が最高指導部・政治局常務委員会入りするとの下馬評が高かったが、2007年3月に浙江省党委書記から上海市党委書記に就いたばかりの習近平がダークホースとなって急浮上した。

 同時に党内では、李克強が河南省長だった2000年前後に同省の寒村で拡大した売血・輸血によるHIV(エイズウイルス)感染問題や、遼寧省党委書記時代の2005年に起こった214人が死亡した炭鉱爆発事故を取り上げ、李の危機管理を問題視する声が出てきた。ただ、それ以上に共青団のホープとして「胡錦濤の後継者」と早くから内外で見なされ、目立ちすぎていた。1980年代に青年交流で日本を訪れたことのある李克強が書記を務める遼寧省には、日本政治家や財界関係者らが訪れる「李克強詣で」が盛んになったが、李は、「親日」は政治的にマイナスになりかねないと神経を尖らせた。

 一方、江沢民前国家主席と曽慶紅国家副主席(共に当時)は、革命と建国に貢献した「革命第一世代」の子弟「紅二代」が持つ共産党の「紅いDNA」が必要だとして、習仲勲元副総理を父親に持つ習近平を支持した。「目立つのは得策ではない」と悟る習は、党大会で内外記者が質問しても、押し黙るスタイルを貫徹し、「色」を出さなかった。江沢民元国家主席への配慮を忘れなかった胡錦濤は押し返せず、結局、習近平は党序列6位になり、同7位の李を上回った。党は習、国務院(政府)は李、という役回りも決定し、5年後の2012年、習は総書記に、李は翌年に総理に就き、李は権力闘争に敗れた。

 李克強と同じ北京大法学部を卒業し、現在は米国で「中国民主転換研究所」所長を務める王天成はXで、「李克強が最高指導者になれず、土壇場で紅二代の習近平に取って代わられたのは、彼が学生時代に自由派知識人と関係した経歴と無関係ではないかもしれない」と記した。

「文革~改革開放」の時代認識を異にする2人

 習近平は、李克強が大学時代に西側民主主義国家の法制や自由主義に傾倒したことや、旧友が中国の民主化を求め続けていることから、李への警戒が解けなかった側面が存在したのではないだろうか。

 李克強は、中国が文化大革命終結から改革開放に向かう中で、自由な北京大学時代を過ごしたのに対し、習近平は同時代を異なる境遇で生きた。その結果、2人は「1970年代~80年代」という激動期に対する認識も異なった。

 習の父親、習仲勲は毛沢東に敵視され、……

カテゴリ: 政治
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執筆者プロフィール
城山英巳(しろやまひでみ) 北海道大学大学院メディア・コミュニケーション研究院教授。1969年生まれ。慶應義塾大学文学部卒業後、時事通信社に入社。中国総局(北京)特派員として中国での現地取材は十年に及ぶ。2020年に早稲田大学大学院社会科学研究科博士後期課程修了、博士(社会科学)。2010年に『中国共産党「天皇工作」秘録』(文春新書)でアジア・太平洋賞特別賞、2014年に中国外交文書を使った戦後日中関係に関する調査報道のスクープでボーン・上田記念国際記者賞を受賞。著書に『中国臓器市場』(新潮社)、『中国 消し去られた記録』(白水社)、『マオとミカド』(同)、『天安門ファイル-極秘記録から読み解く日本外交の「失敗」』(中央公論新社)、『日中百年戦争』(文春新書)などがある。
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