第2回 レーニン 帝国の創始者(後編)

執筆者:池田嘉郎2024年2月18日
演説を行うレーニン(1920年5月)

(前回「第1回 レーニン 帝国の創始者(前編)」はこちら)

2.ロシア革命から内戦へ

1917年

 世界大戦の重圧はロシア帝国を軋ませた。兵士輸送の負担が運輸を疲弊させ、広大な帝国の経済的一体性を弱めた。これが都市部の食糧供給に悪影響を与え、住民の不満を高めた。1917年2月末、ペトログラード(開戦直後にドイツ風のペテルブルグから改称した)で労働者の街頭運動が起こると、守備隊兵士も合流して革命となった。カデット主体の臨時政府が成立し、ロマノフ朝は消滅した。エスエルとメンシェヴィキは1905年の経験にならって各都市にソヴィエトをつくり、労働者と兵士の組織化に努めた。民主的な講和の早期実現に向けて臨時政府に圧力をかけるというのが、エスエル・メンシェヴィキの方針であった1

 二月革命の報を受けたレーニンは、一刻も早い帰国を望んだ。駐ベルン・ドイツ公使がこれに応えた。ロシアの敗北を呼びかけているレーニンに、ドイツ外務省は1915年から注目してきた。こうしてレーニンはクループスカヤ、ジノヴィエフ、アルマンドなどと一緒に3月27日出発した。ドイツ国境で列車を乗り換えてからは参謀本部次長ルーデンドルフ直属の将校などが随行した。「封印列車」というが、フランクフルトで接続便に乗り遅れるなどしているので、文字通り封印されていたわけではない2。4月3日にフィンランド経由でペトログラードにたどりついたレーニンは「四月テーゼ」を発表し、臨時政府打倒と社会主義革命の実現を提唱した。ボリシェヴィキも含めて社会主義者はみな、遅れたロシアで社会主義革命を成し遂げることはできないと考えていたから「四月テーゼ」に困惑した。だが、レーニンは徐々に賛同者を増やしていった。

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