現地時間13日夕方に発生したトランプ氏狙撃の一報を受け、2年前の安倍晋三首相狙撃を思い起こした読者は多いでしょう。まずは前大統領の命が助かったことが幸いですが、政治と暴力の関わりについて極めて重い問いを投げかける事件となりました。
近年の米国の世論調査では、「暴力を伴う政治革命」を容認する人々が顕著に増加しています。それは米国社会の分断が深まる中、立場が異なる主張を封じようという意識に加速されているはずですが、暴力容認傾向自体は党派性にかかわりなく、共和党支持者であろうと民主党支持者であろうと増加していることは変わりません。
今回の事件について「民主主義を脅かす行為を許してはならない」という声が多く上がり、もちろん本誌もこれに同意します。ただ、一方でいわば「よき暴力ならば仕方なし」と考える人々の増加をどう考えるべきなのか。
米国だけの話ではないのです。安倍首相が暗殺された当時、河野有理氏と呉座勇一氏は、民主主義は本来的に、「暴君は殺されなければならない」という精神も宿していることを政治思想の観点から指摘しました。つまり、暗殺は民主主義を脅かす行為という捉え方だけでは、事件の本質は整理できないのだろうと感じます(なお、河野氏と呉座氏に今回のトランプ氏狙撃について改めてお話を伺ったわけではありません。上記は完全に当編集部の見解であることを念のためお断りいたします)。
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