1999年10月にリクルート事件で有罪が確定しながらも、翌2000年6月の総選挙では当選を果たした[豪雨の中、事務所前で万歳する藤波=2000年6月26日、三重県伊勢市](C)時事

 1977年8月、藤波孝生は派閥横断の若手政策集団「新生クラブ」を結成、座長に就任した。田中角栄内閣が発足した翌年の73年、自民党内で2つの政策集団が誕生した。ひとつは中川一郎、渡辺美智雄、石原慎太郎らを中心とした「青嵐会」であり、いまひとつは河野洋平、藤波孝生らを中心に結成された「政治工学研究所(政工研)」だった。数の論理が支配する金権主義的な「田中政治」に対するアンチテーゼということでは一致していた。しかし、目指す道は対照的だった。前者は「若手タカ派」が結集し、後者は自民党内のリベラル派が中心だった。

 歴史には偶然が伴い、思いもよらぬ結果を生むことがある。「青嵐会」の命名もそうである。2つの政策集団の名前をどうするかについて、中川グループは芥川賞作家の石原慎太郎が、河野グループは、俳句の宗匠である藤波孝生が考えることになった。藤波は、俳句の歳時記をもとに検討を重ね、これしかないと思ったのが「青嵐会」だった。ところが、これでどうだろうと打ち合わせしていたその最中、中川グループが「青嵐会」と命名したというニュースが入った。

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