1977年8月、藤波孝生は派閥横断の若手政策集団「新生クラブ」を結成、座長に就任した。田中角栄内閣が発足した翌年の73年、自民党内で2つの政策集団が誕生した。ひとつは中川一郎、渡辺美智雄、石原慎太郎らを中心とした「青嵐会」であり、いまひとつは河野洋平、藤波孝生らを中心に結成された「政治工学研究所(政工研)」だった。数の論理が支配する金権主義的な「田中政治」に対するアンチテーゼということでは一致していた。しかし、目指す道は対照的だった。前者は「若手タカ派」が結集し、後者は自民党内のリベラル派が中心だった。
歴史には偶然が伴い、思いもよらぬ結果を生むことがある。「青嵐会」の命名もそうである。2つの政策集団の名前をどうするかについて、中川グループは芥川賞作家の石原慎太郎が、河野グループは、俳句の宗匠である藤波孝生が考えることになった。藤波は、俳句の歳時記をもとに検討を重ね、これしかないと思ったのが「青嵐会」だった。ところが、これでどうだろうと打ち合わせしていたその最中、中川グループが「青嵐会」と命名したというニュースが入った。
「青嵐」とは、新緑の頃、青葉の上を吹きわたる風のことである。「金権政治」打倒を掲げるにはもっともふさわしい名前だと、2人の文人政治家が期せずして一致したのである。しかし、先を越されてしまった以上同じ名前にするわけにはいかない。藤波によると、「いっそのこと、わけのわからん名前にしよう」ということになり、『政治工学研究所』と名付けたという。その後、田中角栄首相の退陣―「晴天の霹靂」の三木武夫内閣―ロッキード事件の発覚―「三木降ろし」と波乱の政局が続き、河野洋平、西岡武夫、山口敏夫らが自民党を離党、新自由クラブを結成することになる。
新党を結成しようという河野の呼びかけに、藤波も離党して新自由クラブに合流、「河野党首・藤波幹事長」体制になるだろうと誰もが思った。しかし、藤波はあくまでも自民党にとどまり、党内で改革する道を選んだ。この時藤波は河野への餞に、こう詠んだ。
胡蝶蘭 君の個性を 大切に
様変わりした自民党の若手議員
新生クラブ誕生までの前史を詳しく書いたのは、若手政治家の志の有無について、今昔に思いを馳せざるを得なかったからである。今回の政治とカネの問題で、自民党への批判の嵐が吹き荒れる中、自民党内の若手が必ずや立ち上がるに違いないと期待したのは私だけではあるまい。ところが、その動きはまったくと言っていいほどなかった。岸田文雄首相の退陣表明を受けて、9人も自民党総裁選に立候補するという前代未聞の事態となった。日本記者クラブ主催の候補者討論で私は、もっとも若い小泉進次郎に「なぜ若手議員は蹶起しなかったのか」と質した。彼の答えはこうだった。「総裁選に43歳の私が立候補するということ自体が最大の蹶起じゃないですか」。私が聞いたのは、岸田がだめだというなら、なぜ体を張って岸田を降ろそうとしなかったのか。リスク覚悟で挑むことをせず、今手を挙げても損はないとばかり、我も我もと手を挙げるのはおかしいのではないかということだった。しかし、話はすっかりすり替えられてしまった。
新生クラブは、藤波孝生座長、野田毅事務局長を中心に衆院議員28人、参院議員7人の35人でスタートした。渡部恒三、羽田孜、森喜朗、山崎拓、熊谷弘らが馳せ参じ、麻生太郎らも加わり、最終的には66人を数えた。何のために新たな政策集団をつくったのか。「保守の再生」であり、そのために長期的展望に立った政策の確立を目指すという大目標はもちろんあった。しかし、藤波にとっての一番の目的は、派閥抗争が繰り広げられる中で「オアシス」を作ることだった。それは「新生クラブは野戦病院のようなものだ。派閥抗争という戦争で傷ついた同志が、ここで傷を癒やしてくれればいい」という藤波の言葉に端的に表れている。
野戦病院なのだから、「自由に政策論議ができればいい。指導者はいらない。自分は指導者ではないという条件で座長を引き受けたい」と述べて座長に就任した。しかし、参加者の誰の胸中にも、いつの日か「藤波首相」という熱い思いがあった。後に竹下登(蔵相)とともに外相として中曽根康弘内閣を支えることになる安倍晋太郎も、当時から「安竹のあとは藤波時代だ」としばしば語っていた。ところが、藤波はリクルート事件で連座、89年5月、官房長官時代の受託収賄罪で起訴され、政治家人生は暗転することになった。
なぜ空海ではなく最澄だったのか
藤波は一審の東京地裁で無罪判決を受けるも東京高裁で有罪となり、最高裁で有罪が確定した。最高裁第一小法廷から三重県伊勢市の藤波の自宅に有罪確定の速達便が届いたのは99年10月21日夕のことである。藤波は自宅でそれを確認、翌日上京し、栗田勇の『最澄』(全3巻、新潮社)を読み始めた。11月4日午後には、野党3党が衆院議院運営委員会に藤波の議員辞職勧告決議案を提出、与党は否決した。その日の朝、藤波は皇居脇の北の丸公園に車を止め、車内で思いの丈を口述した。
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