中曽根首相は、佐藤誠三郎などの有識者を活用する「ブレーン政治」で、ほぼ丸5年間にわたり政権を維持した[中曽根康弘内閣の閣議=1985年11月1日、国会内](C)時事

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「86年体制」成立の衝撃

 1986年7月6日に行われた第38回衆議院議員総選挙は、同日に行われた参議院議員選挙とあわせたいわゆる「ダブル選」であった。結果は、自由民主党が公示前の議席に50を上乗せし、300議席(後に追加公認を含め304))の大台に到達。まさに一人勝ちの様相を呈した。中曽根康弘首相は、ただちに第三次中曽根内閣を発足させる。80年代初頭から叫ばれつつあった「保守回帰」の動きは鮮明なものとなり、同時代の政治学者たちは保守一強の「86年体制」成立を盛んに論じることになる。82年から首相の座にあった中曽根は翌87年に退陣するまでほぼ丸五年間にわたり政権を維持する。その派手なパフォーマンスを含め時に「大統領的」とも形容される強烈なリーダーシップを誇示したのだった。

 もっとも、現在から見れば、この「86年体制」は、自民党一党支配の崩壊前の最後の陽光――85年のプラザ合意以降のいわゆる「バブル景気」はその賑やかなバックコーラスだった――とも言える時期であった。総裁任期満了とともに翌87年には中曽根は退陣。代わって組閣した竹下政権においてリクルート事件が発覚、政界が混乱に陥る中、東西冷戦の終結とバブル景気の崩壊に後押しされるようにして、93年にはついに自民党一党支配体制は終焉を迎えることになる。

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