日本史はどのように物語られてきたか (7)

第6回 「網野史学」が持つ二面性――天皇はなぜ滅びなかったのか

執筆者:河野有理 2024年11月30日
タグ: 日本
エリア: アジア
「つくる会」に対抗する「正しい」歴史叙述として、当時嘱望されていたのが網野善彦の「網野史学」に他ならなかった(C)時事

(前回はこちらから)

「日本史」を語る上野千鶴子

 歴史を様々な「物語」のあいだの闘争として見る姿勢において、そしてその限りにおいてのみ、上野千鶴子と坂本多加雄は共通点を有しているのではないか。それが前章でわれわれが見てきたことである。

 しかしそれならば上野千鶴子はどのような「物語」を語るのだろうか。そもそも語りうるのだろうか。坂本多加雄は国家の「物語」の必要を説き、自らそのアウトラインを示して見せた。だが、上野はまさにそうした「国家」単位の集合的ナラティブを否定する。そうであれば、結局のところ、日本や日本史というジャンルについて上野が語ることはそもそもないように見える。

 だが、意外なことに、上野の論壇キャリアの初期である1980年代の著作のなかには、広義の「日本史」に関わるものが散見される。上野自身、80年代をマルクス主義フェミニズムとの出会いの時期として、しばしば回顧する。その結実が『家父長制と資本制——マルクス主義フェミニズムの地平』(1990年)であり、同書のテーマであった家族と市場(資本主義)に欠けていた要素——国家とナショナリズム——の前景化が、自身にとっての90年代の意味であるという説明がしばしばともなう。だがその際に見落とされがちなのは、それ以前の著作群である。岩波現代文庫に収録された上野の論壇デビュー作である『セクシィ・ギャルの大研究:女の読み方・読まれ方・読ませ方』(光文社、1982年)はともかく、上野の修士論文——上野は博士号取得を持たずに大学教員として就職した。博士号の取得は2013年、東京大学を辞めた後である——が収録された『構造主義の冒険』(勁草書房、1985年)は、現在比較的言及されることの少ない著作と言えるだろう。

 この『構造主義の冒険』に収録された論文「異人・まれびと・外来王」(初出は「現代思想」1984年4月号)と、ほぼ同時期に書かれた「〈外部〉の分節——記紀の神話論理学」(桜井好朗他編『大系・仏教と日本人1』、1985年)は、上野が構造主義的人類学の手法を駆使して「日本」に切り込んだ意欲作である。「異人・まれびと・外来王」では主に柳田國男と折口信夫の議論が、「〈外部〉の分節」では古事記・日本書紀が分析の対象となっている。

 これらの論文は、米国滞在中のセミナー報告を下敷きとしたものであるため、もともとは英文であり(それぞれThe visiting god legend: a quest for the legitimation of the ruleと「高天原のレヴィ=ストロース」という題目であった)、後者は前者の「続編」として本来は一体の論考であったとされている(「〈外部〉の分節」論文、262頁)。日本人研究者が在外研究中に、日本をテーマにした報告を求められることは、ありがちなことであり、このテーマ選択がどこまで上野自身の内在的な興味関心によるものかは分からない。いずれにせよ、ここで上野が試みているのは、古事記なり『遠野物語』なりの、ナラティブ=物語=神話の解剖であり(その際、やはり「実証主義」が敵役として配される!)、そうしたナラティブが果たす政治的機能の分析なのであった。しかも、分析対象とする物語は時に直接、天皇や国家にかかわる。上野が90年代に直面したというナショナリズムの問題とそれはどのようにかかわるのか、それ自体まことに興味深いテーマと言えよう。

 帰国後、上野は民俗学者の宮田登を司会役とした、歴史学者・網野善彦との連続対談をこなし、その後、この対談は単行本として刊行されている(網野善彦・上野千鶴子・宮田登編『日本王権論』春秋社、1988年)。ここで上野は網野(と宮田)に対し、「王権」を一つのキーワードとして、上記の論文において展開したアイデアを率直にぶつけ、日本史全体の展望について語っているのである。こうした経緯を見れば、上野にとって米国でのセミナー報告は単に外在的なテーマ選択にとどまるものではなかったと判断してもよいだろう。

 以下、本章はこの対談での相手役である網野に注目しつつ、上野の「日本史」観の特徴についても見ていきたい。というのも、この10年後、「新しい歴史教科書をつくる会」に対抗する側(上野もそこに含まれる)が「それではどんな日本史を語るのか?」と問われた際に、おそらく真っ先に思い浮かべる人物こそこの網野であっただろうからである。その網野と、上野は80年代の後半に日本史をめぐって議論を交わしていた。

カテゴリ: カルチャー
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執筆者プロフィール
河野有理(こうのゆうり) 1979年生まれ。東京大学法学部卒業、同大学院法学政治学研究科博士課程修了。博士(法学)。日本政治思想史専攻。首都大学東京法学部(当時)教授を経て、現在、法政大学法学部教授。主な著書に『明六雑誌の政治思想』(東京大学出版会、2011年)、『田口卯吉の夢』(慶應義塾大学出版会、2013年)、『近代日本政治思想史』(編、ナカニシヤ出版、2014年)、『偽史の政治学』(白水社、2016年)、『日本の夜の公共圏:スナック研究序説』(共著、白水社、2017年)がある。
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