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「思想的事件」としての三島割腹自殺
三島由紀夫が陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹自殺を遂げたのは1970年11月25日のことであった。自衛隊に蹶起を促す檄文の読み上げが自衛隊員のヤジにかき消されがちだったという挿話が示すように、三島が現実の政治的影響力を行使したということはなかった。自衛隊は微動だにせず、自衛隊の外でもこれに呼応する動きはついぞ見られなかった。言ってしまえば、この事件は一人の男性作家が自衛隊の敷地に押し入り、自身を慕う若者を道連れに自殺を遂げたということにすぎない。それにもかかわらず、この事件は当時盛んに報道されただけではなく、多くの同時代人が「その日」を鮮烈な記憶とともに語ってきた。それはひとえに三島の自決がある種の思想的事件として多くの人に直観されたからであろう。
これが「思想」的な事件であるという見解を示したのはたとえば司馬遼太郎であった。しかし、司馬がそこでいう「思想」の位置づけは独特なものである。翌11月26日の毎日新聞朝刊一面に司馬は『異常な三島事件に接して』と題する文章を寄せた。「思想というものは、本来、大虚構であることをわれわれは知るべきである」。こう述べる司馬は、「虚構」であるはずの「思想」を「現実と結合すべきだというふしぎな考え方」によって実践してしまった例外として三島と吉田松陰を並べて見せる。そのうえで三島の檄文がヤジと冷笑に迎えられたことについて、「われわれ大衆は、自衛隊員をふくめて、きわめて健康であることに、われわれみずからに感謝したい」と記す。
「思想」が結局は「現実」と結びつかず空回りに終わることを「健康」と評した司馬の一文に激しく反応し、これを「この事件によって触発」されて露出した「日本教徒の本心」(「『檄文』の論理」『日本教について』)と論難したのが、本章で扱う山本七平である。「思想」は果たして、現実なのか、それとも虚構なのか。後に見ていくように、山本七平は終生、司馬のこの一文にこだわり続け、そうした観点から日本史と日本人について考え続けた。

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