第5回 「慰安婦問題」の責任はだれが取るべきか――上野千鶴子の一貫性と揺らぎ
(前回はこちらから)
上野千鶴子の「不在」
再び『ナショナル・ヒストリーを超えて』に戻ろう。1998年5月に刊行されたこの本において、今になってみるとむしろその不在によって自らを際立たせているように見える人物がいる。坂本多加雄らのいわゆる「つくる会」の面々ではない。この時期、やはり「つくる会」に対抗する活発な言論活動を展開していた人物――上野千鶴子である。
その一年ほど前、1997年9月にシンポジウム「ナショナリズムと『慰安婦』問題」が開催された。『超えて』にも論考を掲載していた高橋哲哉・徐京植が登壇するパネルセッションに先立って冒頭に開催されたのが、他ならぬこの上野千鶴子と歴史家・吉見義明の「対決」セッションであった。同シンポの記録とその後のやりとりが収録された同名書籍(青木書店、1998年9月刊行)に登場する人物は『超えて』とかなりの重複を見せているのであるが、『超えて』の方には執筆者として上野が登場しないばかりか、本文や注においてもほとんど言及がない(わずかに注で書名とともに一回、122頁)。だが、これが偶然の結果というわけではないらしいことは、「……どちらにも問題があると片付ける女性論者がいるが……不当な言いがかりである」(140頁)という一節からうかがえる(どのような文脈だったのかについては後述する)。この「女性論者」が上野を指していることは、シンポジウムのやりとりを目にした関係者や観客には明らかだった。対「つくる会」という戦線において統一されているかにみえる『超えて』は、しかし他面では、上野千鶴子という「名前を言ってはいけないあの人」への気まずい沈黙を抱えていたことになる。
「つくる会」に対抗する側にあったこの亀裂が今回のテーマである。といっても、人間集団があればどこにでも存在する仲違いやいがみ合いについての野次馬的好奇心がその動機ではない。この亀裂に改めて光を当て、適切な文脈のなかに置き直すことが本連載全体のテーマにも深く関わってくると思うからである。
第一に、上野の問題提起は歴史学の方法論に関わるものであった。また、第二に、単なる方法論にとどまらず歴史と政治の関わりを問題にするものでもあった。さらに第三に、それが具体的な制度(後述する元慰安婦への賠償のための「女性基金」)への態度決定とも関連していた。一言で言えば、それは到底「言いがかり」などではなかった。それなりに一貫した思想的立場がそこには見られるのである。
さらにいえば、上野がここで選択した立場は――上野がそれを意識していた形跡は見られないが――本連載で扱った坂本多加雄とある種きれいに「かみ合う」ものであった(あるいはそうした部分が坂本の「厄介」さのもう一つの所以であった可能性もある)。上野と坂本の間に、本来存在したかもしれない論争的文脈を以下、再構成してみたい。
「フォーサイト」は、月額800円のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。