昭和史論争の中で亀井勝一郎は『昭和史』には奥行きのある「人間」が描かれておらず、それゆえにまた「国民」の姿も不在であると論難した (C)時事

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『昭和史』に嚙みついた亀井勝一郎

 マルクス主義にとって歴史は大事である。正しい歴史把握が、同時に、今なにをなすべきかについての政治的指針となるからである。したがって、マルクス主義的な歴史、あるいはその方法論に対する批判は常に政治的意味合いを同時に帯びてしまう。他方、マルクス主義の思想的プレゼンスの動揺もまた、即座に歴史叙述の方法論争と結びつくことになる。今回は、歴史叙述をめぐる二つの論争を扱う。昭和史論争と近代化論争である。

 まず、昭和史論争である。それは、ある本がつまらないかどうかをめぐって大真面目な議論が交わされたという点で、特異な論争であった。だが、つまらないかどうかをめぐる論争の背景にはマルクス主義ないし共産党に対する距離感の問題が潜んでいた。

 論争の口火は亀井勝一郎が『文藝春秋』1956年3月号に掲載した「現代歴史家への疑問」によって切られた。曰く、「(書き手の)精神状態が、どうしてこうも生硬なのかとふしぎに堪えなかった」「その悪文に閉口した」「権威への追従をそそのかすのに格好の文章」等々。

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