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アメリカの部屋
2015年08月23日08時13分
武内です。
マミタンさん、コメントをいただき、ありがとうございました。
「執筆者の記事の前提は、①日本は現状維持で最も利益を得る、②日本と米国の国益は完全に一致とまで言わないが基本的に同じ、③日本が採用し得る国家戦略は米国へのバンドワゴン戦略、以上3点を前提としていると思われる」との指摘ですが、記事ではそのような前提を置いているという事実はありません。また、記事からなぜこのような前提を置いていると結論付けるのか論理的説明もなく、言いがかりのような指摘です。
また、私は「安保法制は早く国会を通せ」と言っているわけではありません。私の主張は国会審議で「安全保障を議論せよ」と言っているのです。きちんと読めばわかるはずです。
政界、官界、学界における「安保法案支持勢力」と呼ぶ人たちに対する認識も根拠が全く示されておらず、普段快く思っていない人たちを一緒くたにしただけではないのですか。とくに、米国留学組を強調するところはナンセンスです。「米留組等を批判するという趣旨ではなく」と言っていますが、その前に言っていることは米国留学組に対する揶揄以外の何ものでもありません。
そもそも日本では海外留学組が大きな社会的影響力をもっているという事実はありません。現実は逆で、「ムラ社会」では「ムラのおきて」に従わない「ソト」の人たちを排除し、せっかくの人材が活用されていないというのが実態です。
決定や発言に説明責任を求める人たちは「ムラ社会」で心地よい思いをしてきた人たちには煙たいでしょうが、説明責任のない組織がどうなるかは、東芝の粉飾決算、ボールに名前まで入れて「中身知りませんでした」と強弁したプロ野球のコミッショナー、電力会社の会長や社長の姿を見ていればわかるでしょう。
(武内宏樹)
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maruma
2015年08月12日00時55分
安全保障の議論が憲法論議になってしまっているというのは確かに議論としては捻じれていますが、根本には、安倍首相周辺の右翼的傾向に対する不信があるのではないかと思っています。
正しい議論をして得た結果を、右翼的活動に存分に利用されてはならじ、って感じでしょうか。
私も、安全保障としては政府の理屈は正しいと思っていますが、あまりに自由を与えてしまうと何をされるか分からないという野党の心配も分かります。
靖国にこだわる首相の考えは平均的国民の理解を越えているのではないかと思います。
憲法を変えずに解釈論で対応するのは望ましいことと考えられます。
政権が変わったら解釈を変えればいいのですから。
今回は、恐らくこのまま国会を通って、一応安全保障上は望ましい形となり、
野党は一応筋を通して、憲法を守ろうとしたということになるのでしょう。
談話も恐らく「お詫び」を入れてそれなりに配慮した形にするのでしょう。
実利獲得のうまい安倍政権らしいところに落ち着きそうです。
安全保障の議論をまともにやると中国の脅威をまともに議論することになるでしょうし、それも対外的には望ましいのかどうかという気もします。
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アメリカの部屋
2015年08月21日08時39分
武内です。
マミタンさん、コメントをいただき、ありがとうございました。
私は国会で憲法論議をするなといっているわけではありません。また、「集団的自衛権に係る国会での議論は時間の無駄と一刀両断」しているわけでもありません。「何かを議論せよ」というのと「ほかのことは議論するな」というのは全く違う話です。
現行法案が憲法との整合性に問題があるのならば、安全保障を確保でき、なおかつ憲法とも整合性があるように法案を修正するか、もしくは対案を出せばいいのです。法案を修正するほうが憲法を改正するよりも容易であることは火を見るよりも明らかです。
改正のための要件が非常に厳しい現行憲法の下で、法案に応じて憲法を改正するというのは不可能です。また、法律の上位に位置する憲法を一法案のために改正するというのは健全な発想ではありません。
記事のなかでも述べましたが、国会というのは法律を作るところです。立法の目的に適い(この場合は安全保障の確保)、なおかつ憲法と整合性のある法案を作るために努力するのが与野党を問わず国会議員の当然の務めではないでしょうか。
「廃案」を主張するのなら、廃案にしたら日本の安全保障が最適化されるということを、与党を説得できるよう国会審議で議論する、国民にわかるように説得力のある説明をするというのが野党としての説明責任です。説明責任も果たさず、「憲法」を「職場放棄」の言い訳に使うような所業は、それこそ憲法をないがしろにする態度といわざるをえません。
もうひとつ、ついでにいうと、「日米同盟の深化は当然のことであり、法律論等は瑣末なこと」ということは記事のなかで言っていませんし、私の主張でもありません。もしこれが私の主張であるという理解ならば、それは誤解です。
(武内宏樹)
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アメリカの部屋
2016年05月03日08時21分
武内です。
マミタンさんは10月25日付のコメントのなかで「チョイス・セット」について述べていますが、「チョイス・セット」の肝は「セット」の部分です。
「税金が高いほうがいいか、低いほうがいいか」と問われれば、普通は「低いほうがいい」と答えるでしょう。「高福祉と低福祉のどちらがいいか」と問われれば、「高福祉」と答えるでしょう。それでは、「『高福祉・高負担』と『低福祉・低負担』のどちらがいいか」と問われれば、意見が分かれるのではないでしょうか。
政策議論の真髄はニュアンスにあります。竹中平蔵氏が『構造改革の真実:竹中平蔵大臣日誌』(日本経済新聞社)のなかで、「政策の真髄は細部に宿る」という趣旨のことを述べていますが、政策を議論するときには目標に対して「どういう」政策(how)が望ましいかを議論すべきなのであって、特定の法案に対して「賛成か、反対か」(whether)を議論するのは意味がありません。(11月16日付コメント参照)
ましてや、安保法制をめぐる議論が迷走しているのは賛成派の責任か、反対派の責任かなどという議論は愚の骨頂です。こうした、議論を「原色」に染めようとする態度は、「排外主義」(xenophobia)や「人種差別」(racism)の土台にもなっている「不寛容の精神」にもつながっています。(1月25日付コメント参照)
それから、「誰々は何々を知っている」という議論も生産的ではありません。知識の量だけだったら、人間はどうやってもコンピューターには勝てないのです。
一方、身につけた知識や技術を活用して、自分の考えを経験的事実に基づいて論理的に説明するというのはコンピューターにはできないことです。家柄も性別も階級も人種も国籍も関係なく、相手にわかるように説明するという「説明責任」を果たすことによってのみ、人間は平等になれるのです。
(武内宏樹)
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アメリカの部屋
2015年11月09日10時20分
武内です。
マミタンさん、コメントをいただき、ありがとうございました。
人の意見に対する「思い込み」「思い違い」や「決めつけ」「曲解」は「ストローマン論法」とよばれます。ストローマン論法で議論を「賛成・反対」という皮相な二元論に落とし込むのは、論点のすり替えなので、健全な議論には有害です。
ところで、私は、2014年1月1日付の論考(「2014年の『日米中3国関係』をアメリカから見る」)以来、折に触れて、中国は国内の安定という「内憂」に悩まされており、長期のビジョンに基づいて「外患」に対処するのが難しいのだという点をしてきました。上記論考においては、「(中国は)アジア太平洋での影響力の拡大に熱心であるが、それが地域の安定につながるかどうかには何の責任も感じていないし、何らかの展望をもっているわけでもない。内憂に足を引っぱられる中国であるから、たとえ米国に対抗できるような勢力になったとしても、米国に取って代わって地域の安定と平和という国際公共財をもたらす振る舞いができるかというと疑問である。その意思も能力もあるとは思えないのである」と述べました。
つまり、安全保障上の脅威となりうるのは「強い中国」ではなくて「弱い中国」なのです。2015年5月23日付の論考(「安倍訪米後の『新時代』日米関係(中)一段踏み込んだ『同盟』)で、「国力」というのは「問題解決のためにアイディアを出し、政策を決定して、それを実行に移していく能力」と述べましたが、米国ひいては世界は、内憂に悩まされる「弱い中国」という現実を踏まえて、東アジアの安全保障を確保するために国力を発揮してほしいと日本に期待しているわけです。「賛成・反対」の皮相な二元論に議論を落とし込んで思考停止に陥っている場合じゃありませんよ!
(武内宏樹)
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アメリカの部屋
2017年08月04日09時39分
武内です。
AprilHare さんはコメント(2015年11月1日付)のなかで、共産党をはじめとする野党が使った「戦争法」というレッテルや、政府が使った「平和安全法制」という呼称について論じていますが、レッテル貼りにこだわった議論というのは、何の問題解決にもならないので生産的ではありません。むしろ、レッテル貼りに満足してしまい、思考停止になってしまうので、「百害あって一利なし」といえます。
渡邊啓貴さんが論考へのコメントにおいて、「日本にも(『パートナー』ではなく)『グローバル・プレイヤー』という立場をもっと意識してほしい」と述べていますが、無用なレッテル貼りに拘泥していると、「考える力」「脳力」がますます低下してしまいます。「パートナー」などと言って「お客さん」(もしくは「被害者」)気分に浸って惰眠を貪っているのではなく、「脳力」を磨いて、「プレーヤー」として問題解決の先頭に立つ気概が求められているのです。
米国が「米国第一」というスローガンを掲げて、世界秩序の運転席から降りようとしているときに、「それでは、誰が運転席に座るのか」が問われています。米国の次に経済力があるのは中国ですが、これまで繰り返し述べてきたように、中国がグローバル経済を牽引するには国内改革が不可欠で、内憂に悩まされる習近平政権に世界秩序を主導するほどの余力があるかどうかには、疑問符が付きます。
米国がルール作りの司令塔の座を離れ、多国間の枠組みを嫌っている時勢にあって、日本は自由貿易のルール作りを主導する役割が求められているのです。レッテル貼りに拘泥して、「脳力」を低下させている場合じゃありませんよ。
(武内宏樹)
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アメリカの部屋
2015年10月11日08時43分
武内です。
マミタンさん、コメントをいただき、ありがとうございました。
私は「安全保障の重要性」を前提として議論しているのであって、「安保法制の必要性」を前提としているわけではありません。この2つは違う次元の話です。「賛成・反対」という皮相な二元論に落とし込もうとするから、こういう思い違いをするのです。
ところで、政策を議論する際、政治学でいう「チョイス・セット」を考慮に入れた分析が求められます。「チョイス・セット」のなかから「費用対効果」を考慮に入れて、それぞれのアクターがどのような立ち位置を選好するかを考えるのが政策分析のあるべき姿です。今般の安保法制をめぐる議論においては、結果として与党が最終的に可決された法案という立ち位置だったのに対して、野党は第一党の民主党も、共産党も、同じ「廃案」という立ち位置を選択しました。
政権を担当する見込みのない共産党は、法制がもたらす政策の帰結よりも、安倍首相に恥をかかせて政権の支持率を落とすという効果によって利を得ますから、「廃案」を目指すのは理にかなっています。強行採決でもしてくれたら利得は一層高まります。
一方、将来政権を担当する可能性のある野党第一党の民主党は、安倍政権の支持率を下げることによって得るものはありますが、安全保障の重要性を鑑みた代案を出す選択肢もあったはずです。それでも、最終的に「廃案」を自らの立ち位置として選んだのは、国会が会期制であるがゆえに、「廃案」という立ち位置の費用が著しく低かったからです。
私は、民主党には「費用」の低い「廃案」を選んで易きに付くのではなく、労を惜しまずに、安全保障の重要性を前提とした法制案を出してほしかったのです。党首が共産党の書記長と一緒になって「廃案」と拳を振り上げている場合ではなかったのです。
(武内宏樹)
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アメリカの部屋
2015年08月17日01時12分
武内です。
maruma さん、コメントをいただき、ありがとうございました。
確かに「安倍首相」への不信感が「安保法制」への「反対」という形で表出しているという面は多分にあると思います。とくに、安倍政権の国会での審議の進め方に「賛成」か「反対」かと問われれば、私も「反対」というでしょう。
そこで大事になってくるのが、論考のなかでも指摘しましたが、「集団的自衛権」のような安全保障と直接関係のある問題と、「憲法改正」「歴史問題」「靖国参拝」「従軍慰安婦問題」といった、安倍首相への不信感の源泉になっている問題をきちんと峻別することです。「米国から見た安保法制」という視点で論考を書きましたが、米国は日本の安全保障政策に関する法体系を整備してほしいと主張しているわけで、そこには安倍首相の悲願ともいわれる憲法改正は全く出てきません。
日本で、とくに国会で、安保法制の議論がねじれているのは、それが「賛成」か「反対」かの議論に終始しているからだと私は見ています。「賛成」「反対」が問題になるのは票決のときだけのはずで、本来「国会審議」の肝は法案の中身、すなわち「安全保障をどう確立するか」という問題をめぐる議論のはずです。
安全保障が大事ではないという人はそれほどいないでしょう。しかし、安保法制に反対する場合には、様々な理由が考えられます。
「安倍首相は信用できない」という人もいるでしょうし、「集団的自衛権に反対」ゆえに反対という人もいるでしょう。一方で、「この安保法制では安全保障を確立するのは不十分」と考えて反対の人もいるでしょう。両者は「反対」で一致しても全く違う立場です。
要は、提出された安保法制の不備を指摘して、安全保障を確立するために必要な法制化を進めるというのが国会での与野党双方の役割なのです。
(武内宏樹)
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アメリカの部屋
2016年04月09日21時10分
武内です。
h.sas さん、コメント(10月11日付)をいただき、ありがとうございました。
「国家」というのは入れ物で、「国民」というのは中身です。家のたとえでいえば、「国家」が家そのもので、「国民」はその住人ということになります。
「憲法」は諸法制の上位にあるもので、法制というのは家を機能させているシステムです。安保法制がいくら大事な法制だといっても、一法制のために憲法を改正すべきというのはおかしな議論です。憲法改正は別に議論すべきことです。
これまで繰り返し指摘してきましたが、安保法制というのは、「冷戦後」「中国の台頭」といった国際情勢の変化を踏まえて、日本の安全保障をどう確保するかというのが出発点です。(米国が国際情勢の変化にどのように対応しているかについては、2014年9月21日付「ISIS に向き合う米国:オバマ演説と総合戦略」参照)
提案された安保法制が違憲であるというなら、憲法と整合的でなおかつ安全保障が確保されるような法制を目指して議論をするのが国会のあるべき姿です。憲法学者も国民として国家の安全保障を議論してもらわなければ困ります。廃案にすれば安全保障が確保されるわけではありません。この点については、11月26日付の以下のコメントをご参照ください。
「本来政策議論とは、ゼロベースであるべき姿を検討し、その上であるべき姿を実現するには、どのような政策が必要かを議論するというのが筋です。安保法制の場合は、日本の安全保障を確保するためにはどのような法制が必要なのかを検討し、もしそれが現行の法律と一致するのであれば、新法制は必要ないという結論になります。」
安倍首相はもっと具体的にきちんと説明すべきだというのはその通りだと思いますが、首相の説明が悪いからといってとりあえず廃案にすれば安全保障が確保されるという道理はありません。
(武内宏樹)
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bizenkiyomitsu
2015年10月28日00時16分
マミタンさん、
「集団的安全保障体制」は「集団的自衛権」とご理解ください。
所で、我が国は「日米安全保障条約」という「集団的自衛権」の存在を大前提とした、安全保障政策に基づきその「安全保障」が成り立っている、という現実については如何お考えでしょうか?
何故、「個別的自衛権」はOKで、「集団的自衛権」はNGなのでしょう?供に、日本国憲法の発効後の、国連憲章でもSF講和条約でもその行使になんの制約も与えあられていませんが。因みに、国連憲章では国家の自然権とされていますが?(でも日本は「集団的自衛権」を行使していますが。
国際法上、「個別的」「集団的」自衛権もなんの区別も在りません。ともに自衛権です。
日本国憲法の何処に「個別的」はOKで、「集団的」はNGと書いて在るのでしょう?
「自衛権」そのもを否定するなら理解出来ます。その代わり、自衛隊も日米安保も破棄するのが筋でしょう。
先日までの「日本共産党」の様に、自衛隊も安保も反対なら筋も通りますし、非現実的ですが、理解は出来ます。
で、ご貴殿が日本の「集団的自衛権」に反対する理由は何でしょうか?他人に質問をされながら、反対理由を明示されないのは如何なものでしょう。
また、室山某と言う経済学者の論を引っ張って居られますが、私は聞いた事が在りません。その議論をご紹介頂けますでしょうか?
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bizenkiyomitsu
2015年11月02日19時25分
執筆者である武内様の胸中、お察し申し上げます。
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imomushi
2015年11月02日20時41分
最近の天気予報は良く当たるので、傘や衣類の選択で「シマッタ」という比率が下がったようです。それに比べると共産党や民主党の“予報”はノストラダム並らしい。
日本の防衛は文字通り「専守防衛」であり、従って受動的で相手から攻撃が有った場合、国民の生命財産を守ることを旨としている。つまり自ら相手を先制攻撃したり、どこかの国のように領土・領海・領空を腕ずくで拡張したりすることはない。あくまでも不当な攻撃を受けた場合に備え、応戦する能力を保持するということだと思う。
それに対し、「戦争法」という言葉が意味する組織活動は受動的ではなく、あくまでも主体的・能動的に攻撃相手を決定し、必勝のチャンスを掴んで果敢に攻撃を仕掛けることを旨とする。むろん、攻撃の時期を相手に察知させないために、聞かれても「そんな計画はありません。余はノストラダムではないぞよ」と答えるのは戦法として正しい。しかし、「戦争法」という主体的・能動的に活動する組織の内部では、必ず「計画」があり、そのロードマップに沿って活動しているはずである。
即ち、受動的・専守防衛の立場の者が「ノストラダムスではないので、予言できません」と言う権利はあります。しかし、主体的・能動的に戦争を仕掛ける側(=「戦争法」の立場)がこの言葉を使うのは、人をだまくらかしているということです。
ノストラダムスの向こうを張って“イモムシの予言”というのはいかがでしょう。
予言1:日本で徴兵制は施行されない。
予言2:日本が国家の意思として主体的・能動的に戦争を仕掛けることはない(安保法は「戦争法」ではない*1)
*1:他国の領土・領海・領空を強奪する目的で戦争を行うことはない。宗教的価値観あるいは特定の歴史観などを強要する目的で戦争することはない。自国民の目を他に向けさせる目的で戦争をすることはない。
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maruma
2015年09月15日23時19分
武内様
ご教示ありがとうございます。浅学な私は「キャノングローバル戦略研究所」について知りませんでした。なかなか深い考察が得られそうでそちらの方もこれから見ようと思います。
ところで、「安保法制というのはネガティブ・リストに「できないこと」を列挙しておいて、それ以外は「不測の事態」なのだから現場に任せるというのが本来あるべき姿」というところが理解しずらかったです。
自衛隊は、他国の軍と異なり、まず大きな枠が嵌められているので、まずポジティブ・リストでやることを定義して、そのなかでやってはいけないネガティブ・リストを作るしかないのではないでしょうか。いきなりネガティブリスト以外はOKとなるとやっぱり自衛隊の場合まずいように思います。
こうして見ると、やはり自衛隊と言うのは(まず枠が嵌まっているという点で)他国にない特殊な軍隊なのだと感じました。
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アメリカの部屋
2016年05月11日10時17分
武内です。
bizenkiyomitsu さん、コメント(10月26日付)をいただき、ありがとうございました。
国会議員は安全保障に関する知識はあると思いますが、前回のコメント(5月3日付)で述べたように、「誰々は何々を知っている」という議論は生産的ではありません。コンピューターと競争するのはやめましょう。
あまり注目されていませんが、今般の安保法制は国会に大きな役割を付与しています。自衛隊を海外での活動に派遣するのに、例外なく国会の承認を義務付けました。
自衛隊の幹部は、これでは任務の遂行に必要な柔軟性がなくなるとして嫌がりましたが、国会の承認を得て任務に行くというのは、すなわち国民の支持を得て海外で活動を行うということで、そういう自負が生まれることに意義があるということで納得したといいます。確かに国会議員というのは「法律を作る人」(lawmaker)であると同時に「国民の代表」(representative)でもありますから、国会の承認を得るということは、自衛隊が国民の支持をバックに海外の任務にあたるということを意味します。
さて、国会議員にその重責を担う覚悟があるでしょうか。記事のなかでも指摘したように、昨年の安保法制をめぐる国会審議では、「法律を作る人」が廃案という廃案という法律を作らせない作業に血眼になっているという光景がありました。
国民にも自衛隊を海外に派遣するかどうかを決めるのは自分たちの代表だという自覚があるでしょうか。「賛成・反対」という不毛な二元論に落とし込んで無意味な議論をしている場合ではないのです。
自分たちの代表が「安全保障をどう確保するか」という問題についてどのような見識を持っているのか、果たしてその見識は説得力があるのかということを、国民一人一人が考えることを求められているわけです。
(武内宏樹)
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アメリカの部屋
2015年09月28日02時40分
武内です。
naturalist さん、コメントをいただき、ありがとうございました。
憲法というのは個々の法律を包摂するものですから、憲法は個々の法律の上位にあります。ですから、いくら安保法制が重要な法制だといっても、そのために憲法を改正せよというのはおかしな議論なのです。「安保法制を通したいのなら憲法を改正せよ」と言っている人たちは、表面上は憲法を重視しているふりをしていますが、実際には憲法が最重要だとは考えていないことがよくわかりました。
ところで、私は憲法改正には慎重であるべきだと思っています。というのは、現行の憲法、とくに憲法第9条は、戦後日本が「戦前の軍国主義には戻らない」という「意思」に説得力をもたせる(credible)のに大きな役割を果たしてきたと考えるからです。
第2次世界大戦後の国際社会の課題は、いかにして日本の再軍国主義化を防ぐかでした。9月2日付の論考(「日本は右傾化しているのか」)にも書いたように、日本は米国に頼れない部分を自国の再軍備で補うことで安全保障を確保してきたわけで、実際の安保政策において「平和主義」を採ったことはなかったのですが、「戦前の軍国主義には戻らない」という「平和主義」の「決意」に説得力をもたせるのに、憲法第9条は大きな役割を果たしてきたわけです。
今回の安保法制も実際の政策という面では、過去の安保政策の延長線上にあり、憲法改正をしなかったがゆえに「戦前の軍国主義には戻らない」というメッセージも堅持したといえます。憲法改正と言うからには、これまで「平和主義」の決意に説得力をもたせてきた憲法を変えるわけですから、日本の「平和主義」にどう説得力をもたせるかという問題に正面から取り組まなければならず、とくに慎重な議論が求められるのではないかと思われます。
(武内宏樹)
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sanma
2015年09月28日07時01分
先生のnaturalistさんへのコメントの冒頭部分、
<憲法というのは個々の法律を包摂するものですから、憲法は個々の法律の上位にあります。ですから、いくら安保法制が重要な法制だといっても、そのために憲法を改正せよというのはおかしい>というくだりが、も一つストンと呑み込めませんでしたが、後半はそう、そうなんだと目からウロコの心持で読みました。憲法を憲法専業スペシャリストから民衆に取り戻そうという心意気なんですね。
そうすれば読めてきました、憲法は一国の精神・方向性であり、時々の必要性による法律から超然たるべきものだと・・
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アメリカの部屋
2015年11月26日09時14分
武内です。
マミタンさん、コメントをいただき、ありがとうございました。
『フォーサイト』のコメント欄は公共の場所ですので、コメントの冒頭で、きっかけをあたえてくださった読者の方に謝辞を述べますが、私は全読者を対象にコメントに対するリスポンスを書いています。読者の方のコメントに直接お答えすることもありますが、コメントの内容に基づいて議論を発展させたり、違う話題を提示したりすることもあります。
さて、安保法制をめぐる議論を見ていると、安保法制の必要性に対する説明責任は問われているようですが、何もしないことに対する説明責任は問われていないようですね。つまり、不作為に対する説明責任が問われていないのです。
なぜこういうことになったかというと、安保法制の議論をするときに、日本の安全保障を確保するためには何をすべきかというところから議論を始めるのではなく、与党の安保法制法案に賛成か反対かという皮相な二元論に落とし込んだところから議論を始めてしまったからです。繰り返し指摘してきましたが、「安保法制に反対」という場合には、法制化そのものが必要でないという人もいるかもしれませんし、一方で与党案では不十分だから反対という人もいるかもしれません。安倍首相が嫌いだから反対という人もいるでしょう。「賛成か、反対か」では、ニュアンスという政策議論において不可欠な要素が失われてしまうのです。
本来政策議論とは、ゼロベースであるべき姿を検討し、その上であるべき姿を実現するには、どのような政策が必要かを議論するというのが筋です。安保法制の場合は、日本の安全保障を確保するためにはどのような法制が必要なのかを検討し、もしそれが現行の法律と一致するのであれば、新法制は必要ないという結論になります。
(武内宏樹)
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アメリカの部屋
2016年01月25日01時15分
武内です。
naturalist さん、コメント(10月4日付)をいただき、ありがとうございました。
以前のコメントのなかで、洋画家の絹谷幸二氏が子供に絵を教えるときに、「絵の具はそのまま使ってはダメだよ」「ほかの色をほんの少し、混ぜてごらん」と指導するという話を紹介しました(2015年9月2日付「日本は右傾化しているのか?」12月31日付コメント)。「チューブから出したままの『赤』では、全員が同じ色になる」のに対して、違う色を混ぜると「100人100色の『赤』ができる」というわけです(『日本経済新聞』「私の履歴書」11月24日)。
この話は、naturalist さんが指摘している「和の精神の尊重は素晴らしいと思いますが、人は皆同じではないので、それぞれ自分の考えや思いを言葉に託して意見交換をして理解を促すなり妥協点を探す」「この際、開かれた態度と自己客観視が必要」という点に通じるところがあります。つまり、違う考えや背景をもつ人が自分の考えや思いを相手にわかるように説明するという「説明責任」を果たすことで、絹谷氏も指摘している「個性をはぐくみ、調和を尊重する」という「人間の文明の力」「知恵」が養われるわけです。
「開かれた態度と自己客観視」がなければ「和の精神」など生まれてきません。「個人として責任をとることがない」「外に対して閉鎖的」という態度からは、排外主義(xenophobia)や人種差別主義(racism)にもつながる「不寛容の精神」しか生まれてきません。
米国では「反グローバリズム」のうねりが排外主義や人種差別主義につながっていますが、安全保障確保の問題を「安保法制賛成・反対」の二元論に落とし込む「原色追及」のような議論をしている日本にも「不寛容の精神」という共通の土台があるようです。
(武内宏樹)
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アメリカの部屋
2016年07月26日12時22分
武内です。
AprilHare さんは10月28日付のコメントのなかで、「安保法制成立により、どのようなメカニズムで、現在の日本の安全保障体制の問題点が解決できるのか」という設問を紹介しています。しかしながら、議論を健全なものにするためには「現在の日本の安全保障体制の問題点を解決するのにはどのような安保法制が望ましいか」という設問にするのが筋です。
5月3日付のコメントでも述べたように、政策を議論するときには目標に対して「どういう」政策(how)が望ましいかを議論すべきなのであって、特定の法案に対して「賛成か、反対か」(whether)を議論するのは意味がなく、議論を壊してしまいます。また、前回のコメント(7月9日付)でも指摘しましたが、「賛成・反対」の二元論に落とし込むような議論は、「排外主義」(xenophobia)や「人種差別」(racism)とも共通の土台をもつ不寛容の精神につながっているという意味で、不毛で無意味なだけではなく有害です。
議論をする上での一番大事なルールとは「自分の考えに賛同してほしければ、相手が納得するように説明せよ」というものです。これに対して、特定の法案に対して「賛成か、反対か」という二元論では、「相手の考えに自分が賛同してほしければ、自分が納得するまで(たぶん永遠に)説明せよ」というルールが幅を利かせてしまいます。
野球にたとえれば、前者のルールはプレーヤーの論理です。自分の考えを論理的に説明し、経験的事実と照らし合わせて自分の考えを説得力のあるものにするという作業のぶつかり合いが議論のあるべき姿なのです。一方、後者のルールは観客の論理です。「お金を払って見に来ているのだから俺を満足させろ」というわけです。野球の試合で選手がお客さん気分になってプレーしたら野球にならないでしょう?
(武内宏樹)
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takeuyun
2015年10月06日00時25分
32件のコメント、武内さんと読者との会話、本日初めて、一気に見ました。ほんとうにおもしろい。
まるで大学の講義。新聞社や通信社のコラムなんかより、よっぽど役に立つ。「コミュニケーションのやり取りを重ねて議論を深め、全体にレベルアップさせていきたい」、という武内さんの基本的スタンスが見て取れます。いい意味でのアメリカの影響でしょう。
ところで、この2カ月で経済を含めて世界情勢もずいぶんと変化があったのですが、武内さん、ご無沙汰ですね。ここにもっと頻繁に記事をアップしてくださいよ(「専門家の部屋」だけではなく、本格的な記事や連載なら、もっと歓迎)。たとえば、今回の習近平訪米についてとか。すでにアップ済み記事とは別のアングルから捉えた内容を期待します。「カノッサの屈辱」、「ツキュティデスの罠」に続いて、武内さんならどういうキーワードを用いるのか。いずれにしても、欧米メディア然と、古代ギリシャ、ローマと関連付けるのはご勘弁を。
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マミタンさん、コメントをいただき、ありがとうございました。
「執筆者の記事の前提は、①日本は現状維持で最も利益を得る、②日本と米国の国益は完全に一致とまで言わないが基本的に同じ、③日本が採用し得る国家戦略は米国へのバンドワゴン戦略、以上3点を前提としていると思われる」との指摘ですが、記事ではそのような前提を置いているという事実はありません。また、記事からなぜこのような前提を置いていると結論付けるのか論理的説明もなく、言いがかりのような指摘です。
また、私は「安保法制は早く国会を通せ」と言っているわけではありません。私の主張は国会審議で「安全保障を議論せよ」と言っているのです。きちんと読めばわかるはずです。
政界、官界、学界における「安保法案支持勢力」と呼ぶ人たちに対する認識も根拠が全く示されておらず、普段快く思っていない人たちを一緒くたにしただけではないのですか。とくに、米国留学組を強調するところはナンセンスです。「米留組等を批判するという趣旨ではなく」と言っていますが、その前に言っていることは米国留学組に対する揶揄以外の何ものでもありません。
そもそも日本では海外留学組が大きな社会的影響力をもっているという事実はありません。現実は逆で、「ムラ社会」では「ムラのおきて」に従わない「ソト」の人たちを排除し、せっかくの人材が活用されていないというのが実態です。
決定や発言に説明責任を求める人たちは「ムラ社会」で心地よい思いをしてきた人たちには煙たいでしょうが、説明責任のない組織がどうなるかは、東芝の粉飾決算、ボールに名前まで入れて「中身知りませんでした」と強弁したプロ野球のコミッショナー、電力会社の会長や社長の姿を見ていればわかるでしょう。
(武内宏樹)