マスク着用義務解除後のエルサレム市街(マハネ・イェフダ市場=筆者提供)
イスラエルの新型コロナウイルスワクチン接種件数が順調に伸びている。昨年末に接種が開始されて以降、この4カ月で532万人(イスラエルの人口929万人の6割弱に相当)が2回の接種を完了。新規感染者の減少に伴い、屋外でのマスク着用義務は解除され、レストランの屋内営業も再開した。5月には外国人観光客への国境開放との噂もある。しかし一方で、社会全体が“戦時”から平時に戻りつつある今、新たな問題点も見えてきた。

 本稿では、イスラエルでワクチン接種も体験した筆者が、コロナ対策先進国とされる同国の足元で起こりつつある問題についてレポートする。

 イスラエルにおいて短期間でワクチン接種が進んだ理由は何か。まず、ワクチン入手方法が徹底していた。特務機関モサドが、初期の段階で世界のワクチンを搔き集めたという報道もなされた。さらに、ベンヤミン・ネタニヤフ首相はワクチン製造会社ファイザー社のユダヤ人社長と計17回の会議を行い、世界最速でワクチン供給を可能にした実績をアピールしている。

 また、筆者はイスラエルならではの2つの事情が良い方向に働いたと思っている。

 一つ目はIT化だ。イスラエルでは保険会社ごとにサイトが設けられており、インターネット上でワクチン接種を予約する形式をとる。イスラエル国民はほぼ全員保険に加入しているので、個人とワクチン接種データの紐づけが比較的容易である。そのため、現在はどこの病院に行ってもすぐにワクチンを受けることができる(イスラエルでは現時点で、16歳未満の子供を除く全員がワクチンを接種する権利を持つ。まもなく、12歳以上に拡大される見込み)。

 二つ目はイスラエルお得意の「柔軟性」だ。それは特に「余剰ワクチン」の取り扱いで顕著だった。サイトで予約した人のうち一定数は、当日無断キャンセルをしてしまう。本来、使わなかったワクチンはそのまま次の日に持ち越すべきだが、管理上の理由(一度解凍・希釈されたワクチンを保存できない)でその日のうちに廃棄せざるをえなかった。しかし、イスラエルでは保健省の許可のもと、接種所が余剰ワクチンの情報をSNSで拡散して、少しでも無駄にならないよう工夫したのだ。筆者も実際に接種所を取材したが、余ったワクチンの引き取り手になるべく連日連夜、予約ができなかった地元の人々が集まっていた。現場の判断で対応を柔軟に変えるのは、今回のような非常事態には大変有効だと感心した。 

 筆者も1月にワクチン接種を体験した。上述した通り、ワクチン接種のためには保険に加入し、その保険会社経由で予約をする必要があったが、大学院で加入していた保険がコロナワクチン適用外だったため、しばらく接種できなかった。

 しかし、1月末になると筆者のような外国人や無保険の人々向けに、ワクチン接種会場が限定的に公開された。筆者はイスラエル人同級生からその話を聞き、早速接種会場に向かった。会場は同じように今まで接種できなかった保険未加入の人々でごった返していたが、なんとかワクチンを接種できた。

 イスラエルでは、ワクチン接種を完了した人にはグリーンパスポートが付与されることになっている。2回目の接種を終えると、接種証明書とグリーンパスがメールで送られてくる。これがあれば、ジムやスイミングプールを利用できるようになるし、公共施設に入るときにも必要となる。

 余談だが、筆者はグリーンパスの入手に大変苦労した。オンラインで申請をする形式なのだが、自分の個人情報をいくら打ち込んでも、「該当なし」と出てしまう。何度も管轄する保健省に連絡を取った末、「あなたの電話番号が1ケタ足りない」という回答だった。要は、接種所の職員が手打ちでパソコンに情報を入力する際に数字を落としてしまったようだ。他のパスポート番号はあっているのに、携帯番号一つ間違えるだけで申請ができなくなってしまう。ハイテクと柔軟性を売りにするイスラエルだが、その反面、非常に詰めが甘いところもあるのだ。

パレスチナとの間にある“ワクチンの壁”

 筆者の周りのイスラエル人は早々にワクチン接種を終えている。4月18日にマスク着用義務が解除されて以降、街中にはマスクをしない人があふれ、あたかもコロナ禍の前に戻ったのではないか、と思えるような状況にある。

 筆者が通う大学のユダヤ人の同級生はもれなく全員ワクチンを接種済みで、「ワクチンを打ったことでとにかく気が楽になった。これまでは人と話すときにも気を遣っていたが、今は好きな人と好きなだけ話せる。こんなに幸せなことはない」という声も聞けた。筆者も最近在留邦人12名と地元のレストランに夕食にでかけたが、マスクを外して好きなことを話して笑いあえる久しぶりの感覚に若干戸惑ったほどだった。

 その一方で、筆者の身近にもワクチン接種に辿り着けていない人がいる。その筆頭はパレスチナ人だ。1993年にイスラエルとパレスチナ自治政府間で結ばれたオスロ合意で、行政権はパレスチナ自治政府の管轄とする、という取り決めがなされた。イスラエルはこれを根拠に、パレスチナ自治政府が自前でワクチンを調達することを主張している。そのため、イスラエル側に比して、パレスチナ側の流通量は少ない。

 筆者の友人のパレスチナ人も「早く打ちたい。老人が最優先だから、若者にはなかなか回ってこない。イスラエルでは(君のような)外国人が打てるのにね」と複雑な心境を吐露していた。その友人は家族内でコロナに感染した人が出て以来、「次は自分なのではないか」と不安な日々を過ごしているそうだ。筆者も、その話を黙って聞く他なかった。

政治的駆け引きの人質となったワクチン

 一方で、政界でも大事件が起きている。イスラエル政府がワクチンの代金を支払うことができず、製薬会社が70万回分のワクチン供給を停止したというのだ。追加で3000万回分の調達を目論んでいたイスラエルにとっては大きな打撃となった。

 ことの発端は、汚職問題で訴追を受けているネタニヤフ首相が、自身の命運を決しかねない法務大臣の任命を遅らせていることにある。これに抗議する形で、連立政権を組む第二党「青と白」の党首でネタニヤフ首相の好敵手でもあるベニー・ガンツ氏が、ワクチン代金の支払いを決定する会議を欠席し、採択ができない状況にあるという(連立の条件として、法務大臣はガンツ氏陣営の中から選出されるという取り決めだった)。

 これに対し、ワクチンを製造するファイザー、モデルナの両社は、「支払いが確認されるまではイスラエル向けのワクチン供給を停止し、他の国に振り分ける」と発表。イスラエル政府は動揺が広がる国民に対し、「直近では国内の備蓄が十分にある」と説明しているが、2カ月後には昨年12月に接種をした人の2回目の接種が始まることもあり(ワクチンの効果は半年とされている)、順調なワクチン調達に暗雲が立ち込め始めた形だ。

 こうした政治的混乱について、連立政権内からも「首相自らが汚職問題の解明を妨げている」という批判が出ている。また、ネタニヤフ首相に対して批判的な勢力からは「(ネタニヤフ氏の行動は)民主主義への脅威だ」という声も上がる。最終的に予算の余りを活用して支払いができることになったようだが、事態の本質的な解決策にはなっておらず、今後も同様の問題が起きる可能性は高い。

 この状況を人々はどう思っているのか。ヘブライ大学で中東問題を専攻し、将来は政府系の仕事につくことを嘱望されている筆者の友人は、

 「世界に先駆けてワクチンを接種できたという点ではネタニヤフ首相の貢献は大きい。しかし、汚職問題によって政治が停滞して他の重要なことが議論されなくなっている。その意味で、彼の責任は可及的速やかに追及されるべきだ」

 と語る。イスラエルには政治議論が好きな人が多いが、総じて、評価するところは評価しつつ、納得のいかない点には一切手心を加えない。

 この数年間崖っぷちに立たされてきたネタニヤフ首相だが、その都度国内外の問題にうまく対処する形で生き残りを図ってきた。しかし、平和が訪れつつある今、「非常事態だから」という言い訳は通用しない。首相が国民とワクチン会社に「年貢」を納める時が来たのかもしれない。

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