テレビ中継された、2月21日の安全保障会議。ここでウクライナの親露派2州独立承認が決まったのだが (C)AFP=時事
家庭生活、読書傾向、人脈――ウクライナ侵攻というプーチン大統領の常軌を逸した判断の裏には、最初の大統領就任時から大きく変化した、「精神の密室」の中の独裁者の姿が見えてくる。

 ロシア軍のウクライナ攻撃について、米政権内きってのロシア通であるウィリアム・バーンズ中央情報局(CIA)長官は3月8日の米下院情報委員会で、ウラジーミル・プーチン氏は侵攻の遅いペースに「怒りと不満」を抱き、ウクライナ側の抵抗に「倍返し」(double down)で応じ、「ウクライナを制圧・支配」しようとしていると予測した。

 プーチン氏については、新型コロナ禍での隔離生活で「別人になった」(エマニュエル・マクロン仏大統領)との見方もあるが、同長官は「精神状態が異常ということではないと思う」としながら、

「助言できる人がどんどん少なくなり、プーチン氏の個人的な信念がより重きをなしている」

 と述べた。

 プーチン氏の私生活の変化も、今回の異様な侵攻決定につながった可能性がある。

リュドミラ夫人と離婚劇

 2013年6月、プーチン大統領とリュドミラ夫人の離婚が発表された。

 大統領報道官は「リュドミラ夫人には、住宅とクルマが与えられる」と発表した。

 プーチン大統領には、クリミアとウクライナ東部が与えられる。

 これは、2014年のウクライナ危機後にロシア語圏のジョークサイトに投稿されたアネクドート(小話)。家庭生活を捨てたプーチン氏がウクライナ解体に突き進む経緯を皮肉っている。

 夫妻はクレムリン宮殿でバレエを鑑賞後、そろって国営テレビのインタビューに応じ、

「私の仕事は公的なものだ。リュドミラは長年それに付き合ってくれ、気の毒だ」(プーチン氏)

「私たちは実質ほとんど顔を合わせていない。彼は仕事に没頭しているし、子供たちも成人して独立した」(リュドミラ夫人)

と説明した。

 リュドミラ夫人はやや精神的に不安定なところがあったという。筆者がモスクワに勤務していた頃、クレムリン当局者は、

「夫人はやさしく、家庭的な女性だが、2000年の訪日時に和服を着て公の場に現れ、皆をびっくりさせた。2005年末の訪日では、同行をドタキャンした」

と話していた。

 やさしく家庭的なリュドミラ夫人がそばにいれば、野蛮なウクライナ攻撃を止めるよう夫に進言できたかもしれない。

2人の娘は尊厳ある社会人

 プーチン氏の2人の娘は社会で活躍し、父ともしばしば会っているようだ。プーチン氏は以前、「娘の写真を公表した者は刑事罰に問え」と言っていたが、現在はメディア露出も増えてきた。

 長女は「マリア・ウォロンツォワ」といい、医学博士として、小児医療の専門企業を共同経営する。オランダ人実業家と結婚し、オランダに居住していたが、2014年のウクライナ東部上空でのマレーシア航空機撃墜事件で、多数のオランダ人乗客が死亡して反露感情が高まったため、帰国した

 次女は「エカテリーナ・チーホノワ」さんで、「チーホノワ」の姓は、大統領の母方の旧姓らしい。大学では日本語や日本史を専攻。スポーツ万能で、アクロバット・ダンスはプロ級。その後、学術界に進出し、国立モスクワ大学理事。2020年に同大学のAI(人工知能)研究所長に任命された。

 エカテリーナさんは若手投資家キリル・シャマロフ氏と結婚した。キリル氏の父親、ニコライ・シャマロフ氏はプーチン大統領と1990年代、サンクトペテルブルクで共同で不動産投資を行った仲間だ。しかし、数年で離婚し、財産を折半したと報じられた。

 プーチン氏は2011年、テレビ会見で珍しく娘に言及し、

「2人はスマートで教養があり、自制心が強く、尊厳もある。外国語もできる」

 と称えていた。自制心と尊厳で、父にウクライナ侵略中止を進言してもらいたいところだ。

帝政ロシアを読書で研究

 プーチン大統領は2000年に大統領に就任後、ジムや道場で体を鍛えたり、読書に集中し、自己研鑽を重ねた。

 2001年の国民とのテレビ対話で、「今読んでいる本は何か」との質問に、

「エカテリーナ女帝の統治に関する歴史書だ」

 と答えた。

 2012年に政治学者との会見で、「あなたに政治的影響を与えた人物は誰か」との質問に、ピョートル大帝とエカテリーナ女帝を挙げ、

「女帝の時代にロシアは領土を拡張した。彼女はピョートル大帝よりも効率的な君主だったかもしれない」

 と述べた。ドミトリー・ペスコフ大統領報道官は、プーチン氏がコロナ禍の隔離で、帝政ロシア時代の歴史書をよく読んでいると話していた。

 帝政ロシアは18世紀のエカテリーナ女帝の時代に、トルコとの数度の戦争を経てウクライナ東部やクリミアを領有し、「ノボロシア」(新ロシア)と呼んだ。

 プーチン氏は昨年7月発表したウクライナ論文で、

「今日のウクライナは、完全にソ連時代の産物である。ウクライナは『歴史的なロシア』を損なう形で形成された」

 とし、大ロシア、小ロシア(ウクライナ)、白ロシア(ベラルーシ)の三位一体の時代に戻るよう呼び掛けた。

 ウクライナへの開戦演説でも、

「ウクライナはロシアの歴史、文化、精神的空間に不可欠な一部だ」

 と強調した。

 これらは、戦後の国際秩序に挑戦する危険な歴史認識であり、帝政期をめぐる過剰な読書が、狂信的な侵攻を招いた背景にあるかもしれない。

シロビキで密室決定か

 プーチン氏は就任当初はプラグマチックな現実主義者であり、リベラル派閣僚や知識人とも交流していた。しかし、2012年に大統領に復帰すると、反米・国粋路線を強め、政権内強硬派シロビキ(武闘派)の影響力が高まる。

 2014年のクリミア併合について、プーチン氏は後に、ニコライ・パトルシェフ安保会議書記、セルゲイ・イワノフ大統領府長官、アレクサンドル・ボルトニコフ連邦保安庁(FSB)長官、セルゲイ・ショイグ国防相の5人で決めたと述べていた。ショイグ国防相を除く4人は、プーチン氏と1970年代後半、サンクトペテルブルクのKGB(ソ連国家保安委員会)で同僚だった。

 今回のウクライナ侵攻も、これらインナーサークルによる密室決定の可能性があるが、誰が加わったかは不明だ。イワノフ長官はその後大統領特別代表に転出し、影響力は低下した。

 同じサンクトKGBのセルゲイ・ナルイシキン対外情報庁(SVR)長官は、2月21日の安全保障会議で唯一外交交渉に支持を表明する異様な場面が話題になった。

 プーチン氏はテレビ中継された安保会議で、東部の親露派2州の独立を承認すべきかどうか1人ずつ意見を述べさせた。

 全員が独立承認を支持する中、ナルイシキン長官だけは、

「最後に西側のパートナーたちにチャンスを与え、ウクライナが平和を目指すよう強制してもらっても……」

 と要領を得ない発言を行った。プーチン氏が、

「また西側と話し合いをしろと言うのか。はっきりしなさい」

 と突っ込むと、ナルイシキン氏は両共和国の「ロシアへの加盟を支持する」とトンチンカンな回答を行った。プーチン氏は、

「今、そんな話はしていない」

 と苛立つと、ナルイシキン氏も結局賛成に回った。

侵攻はプーチン氏の決断

 このシーンは、海外の情報収集を担当する対外情報庁が、ウクライナ侵攻に反対した可能性があると一部で分析された。

 ロシアの独立系メディア『メドゥーザ』も13日、別の情報機関である連邦保安局(FSB)の対外諜報部門幹部が、大統領にウクライナの政治情勢を正しく報告していなかったとして自宅軟禁に置かれたと報じており、情報機関内に侵攻への動揺があるかもしれない。

 一方で、プーチン氏の懐刀であるパトルシェフ書記は登壇した際、

「米国はロシア連邦を解体しようとしている」

 と強烈な反米論を展開。また、大統領のボディーガード出身のヴィクトル・ゾロトフ国家親衛隊長官は、

「2共和国の独立承認は必須である。ロシアを守るにはもっと先に進まなければならない」

 とし、その先のウクライナ侵攻を示唆していた。

 安保会議メンバーの発言を見る限り、この2人が大統領に近いことが分かる。

 2年前、ウクライナ政策担当となったドミトリー・コザク大統領府副長官がキーパーソンとする説もあるが、安保会議の報告では技術的問題に終始し、戦略問題には言及しなかった。

 ただ、ウクライナ攻撃を決断し、主導したのがプーチン氏であることは間違いない。

 深夜の安保会議の異様な議事進行、全員に踏み絵を踏ませる共同責任の取らせ方、他のメンバーの強ばった表情、ナルイシキン氏の異論を有無を言わせず封印させた迫力は、ウクライナ全面侵攻が、独裁者・プーチン大統領の個人的決断であることを示している。

 

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