民主主義に潜在する暴力と、安倍晋三という「妥協点」の喪失

執筆者:論壇チャンネルことのは2022年8月30日

*お二人の対談内容をもとに編集・再構成を加えてあります。

「暴君は殺されなければならない」という共和主義の精神

河野 安倍晋三元首相銃撃事件が、民主主義に対する挑戦であり、ある種の政治テロだったと言うのは事実としても、その一方で山上徹也容疑者の行動に対して内心では共感を覚える人もいるのだろうと思います。私自身はそれにまったく同意しませんけれども。

呉座 おそらくそうでしょうね。戦前の5・15事件では、国民的な減刑嘆願運動が起きて、それに影響されて異例の軽い判決が出されています。

河野 なぜ、そのように考えるのか。単に、安倍晋三氏のことが個人的に嫌いだから、という理由だけではないように思います。安倍晋三という人は独裁者であり、独裁者を除くのは良いことである――そういった考え方が、この共感の根底にあるのではないでしょうか。

 ヨーロッパには共和主義の伝統があり、「民主主義の敵である独裁者を倒すのは善」という考え方があります。だから、シーザーを殺したブルータスは英雄なんです。政治学者のバーナード・クリックが、面白いエピソードを書き残しています。ケネディが暗殺された日、ある友達が涙ながらに電話してきて「だがなバーナード、だからといって、本当の暴君は殺されて当然だということを断じて忘れてはいけないぞ」と言ったというのですね。「暴君は殺されなければならない」。これは西洋政治思想史における共和主義の精神の譲れない一線なのですね。

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