深圳・男児刺殺事件と「日付」のタブー――日本人が気付いていない現代中国の歴史感覚

安田峰俊『中国ぎらいのための中国史』(PHP新書)

執筆者:安田峰俊2024年9月27日
諸葛孔明や元寇などがどうとらえられ、活用されているかは中国人の歴史感覚を知る大きなヒントだ[東京電力福島第一原発の処理水放出が始まった昨年秋、中国人民抗日戦争記念館前を中国国旗を手に歩く子どもたち=2023年9月3日、中国・北京](C)時事

 今年9月18日、中国広東省深圳市で日本人学校に通う10歳の男児が男に刺されて命を落とす痛ましい事件があった。発生したこの日は満洲事変の記念日で、中国政府側の説明はなされていないものの中国国内の反日感情が関係していた可能性が高い。奇しくも同日に新著『中国ぎらいのための中国史』(PHP新書)を刊行した安田峰俊氏が、事件の背景と中国人の歴史観について解説する。

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 現地に滞在する日本人には「常識」だが、日本国内の一般人はほぼ意識していない中国のタブーは多い。その最たる例が「日付」だ。かつて盧溝橋事件が起きた7月7日、満洲事変(柳条湖事件)が起きた9月18日、南京大虐殺犠牲者の国家追悼記念日の12月13日は、在中日本人にとって非常に敏感な日付にあたる。いずれも中国国内の反日感情が高まり、在中日本人が嫌がらせを受けるような事態が増えるからだ。

 実のところこれらの日付は、1980年代までの中国ではそこまでセンシティブではなかった。かつての毛沢東時代の中国は台湾の国民党やソ連が主敵、さらに鄧小平時代も戦略的理由から日本と友好関係を結ぶ必要があり、日本との歴史問題が政治的にクローズアップされることは少なかったからだ。

 その後、90年代なかば以降に江沢民政権下で、従来の社会主義イデオロギーに代わって国民を団結させるツールとして「愛国主義」が採用され、対日歴史問題が世論に大きな影響を与えはじめる。ゼロ年代以降はネットの普及で国民のナショナリズム(≒反日感情)が強化され、前出の3つの日付は従来に増して特別な意味を持つことになった。習近平政権下の2014年には、12月13日が国家追悼記念日に指定されている。

 いっぽう、大多数の日本人は、戦史マニアでもない限りはこれらの日付を覚えていない。そもそも日本人にとっての「先の大戦」は、太平洋戦争や空襲・原爆投下のイメージが強く、満洲事変以降の中国侵略はあまり意識されない。そのため2010年ごろから、企業や日本国家がこれらの日付に無頓着なまま「地雷」を踏む事案が頻発してきた。

ソニー、パナソニックが踏んだ「日付の地雷」

 近年のビジネスの世界での話から先に述べよう。2021年初夏、ソニー中国が新製品の広告をネットにアップしたのだが、その製品発表会の日が7月7日。盧溝橋事件の日であるだけでなく、さらにリリース開始の時間帯が事件の発生時間と近い「午後10時」だったことで中国側のネットで大炎上し、製品の発売日の延期を余儀なくされた。

 これだけなら、日本でもときにみられるネット炎上事件だが、中国の場合はこの先がある。同年10月、北京市の朝陽区市場監督管理局は、中国の広告法第9条の「国家の尊厳を損なう」という法令に違反したとして、ソニー中国に同法の上限にあたる罰金100万元(約2000万円)を科したのだ。ソニー中国側は単に7月7日に新製品を発表しようとしたという理由だけで、この決定を受け入れることになった。

 また、2020年9月18日には浙江省杭州市にあるパナソニックの中国法人に勤務する中国人従業員が、WeChat(中国で普及しているチャットソフト)のモーメンツに「918勿忘国恥」(国家の恥を忘れるな)のスローガンが書かれた画像を投稿。中国人上司からこの行為を叱責されたことを理由に退職後、従業員側が上司とのWeChatの会話のスクリーンショットをネットに公開した。結果、ネットで炎上して製品のボイコットが呼びかけられたことで、パナソニック側が謝罪に追い込まれる事態となっている。

 近年の中国において、一連の日付が非常にリスキーな意味を持つことは明らかだろう。やや古い話だが、より深刻な国際問題もある。民主党政権下の2012年、尖閣国有化問題に関連した日本側の動きだ。当時の野田佳彦総理はわざわざ7月7日に、それまで私有地だった尖閣諸島の国有化方針を表明、さらに満洲事変記念日直前の9月11日に島の土地の購入をおこなった。

 当時の中国は対日姿勢が比較的穏健な胡錦濤政権だったが、中国側は日本側の日付の選定に必要以上の敵意があると解釈。中国各地で日系企業の破壊をともなう大規模な反日デモが発生することになった。

「中国版・無敵の人」と愛国反日ブームが混合

 中国側の過剰な反応は、いわゆる「反日教育」や、現地のテレビで常に流されている抗日ドラマ(検閲をすり抜けやすいこともあり粗製乱造されている)の影響が理由として説明されることが多い。ただ、特に近年のソニー事件や日本人学校児童の襲撃といった事態については、さらに別の要因もある。

 2010年代なかば以降、習近平政権下で愛国主義イデオロギーと言論統制が極度に強化されたことや、コロナ禍を境に強まった中国世論の内向き化や経済減速による閉塞感、さらにこうした風潮なかで「反日ネタ」や日本関連の陰謀論(日本人学校がスパイの拠点であるなど)でインプレッション稼ぎをおこなうネットのプラットフォームや個々のネットユーザーが増加したこと……。と、各種の要因が複合することで、中国のネットは「愛国暴走」にはしりがちな傾向を強めている。

 今年、7月7日を控えた6月下旬に江蘇省蘇州市の日本人学校のスクールバスを待つ母子が男に刃物で襲われ、それをかばったスクールバス乗務員の中国人女性が死亡した事件や、9月18日に広東省深圳市の日本人学校で発生した通学中の児童の刺殺事件などは、いずれも中国当局は事件の背景を明確にしていないものの、こうした昨今の風潮から影響を受けた人物による犯行だとみられる。

 近年の中国ではもともと、いわゆる「中国版・無敵の人」(将来の見込みがなく失うものを持たない人)による児童殺傷事件や学校襲撃事件が年に何度も起きているのだが、これとネット上の愛国反日ブームが混合することで、日本人児童を襲撃のターゲットにする事例が増えているのだ。

 経済の減速によって国民の不満が高まるなか、当局はこれまで国民をコントロールするために活用してきた濃厚な愛国主義を容易に撤回することもできない。類似の日本人襲撃事件は今後も起きる可能性がある。とりわけ、7月7日と9月18日、12月13日の前後は、中国に滞在する日本人は最大限の注意が必要だ。

むしろ特殊な現代日本人の「過去への認識」

 近年の極端な動きは、すでに述べたように現代中国の社会問題に根ざすところが大きい。だが、中国人が歴史にこだわりがちな理由それ自体がはらむ内在的な論理については、中国共産党の政治的扇動とは別の問題として知っておく必要がある。そもそも歴史に対する距離感は、東アジアのなかで近年の日本人(日本本土の日本人)がむしろかなり特殊だからだ。

 戦後の、とりわけ親族関係が希薄化した今世紀以降の日本人の場合、自分たちの3〜4世代前の祖先はかなり遠い存在だ。ゆえに現代の日本人の大多数は、大戦中の加害の自覚はもちろん、東京大空襲や原爆投下、大戦末期のソ連軍による住民虐殺や暴行などの被害者意識もすでに非常に薄い。

 現代日本人になんらかの被害者意識があるとすれば、せいぜい今世紀に入ってからの中国や韓国の反日運動に対するもの(あとは氷河期世代による日本国家への恨みなど?)くらいだろう。感情の矛先は「個人が実際に経験した過去」よりも古い時代にはほとんど届かない。

 いっぽう、中国──。のみならず、韓国・台湾にせよ沖縄にせよ、父系の血族集団(中華圏の場合は宗族)の考えが社会に色濃く残る他の東アジアの世界は、過去への認識が現代日本人とは異なる。

 たとえば中国の宗族の場合、実際はフィクションであるにせよ、周王朝の時代や伝説上の君主である三皇五帝の時代までさかのぼった祖先のルーツを現在まで伝える例も多い。もちろん、現代的な若い世代になるほどルーツを意識する傾向は薄れるのだが、それでも「祖先は清代後期まで浙江省にいたらしい」程度の一族の知識を持っている人は決してすくなくない。

 やや極端な例を挙げれば、私はむかし広東省東部の農村で、村同士で戦争(械闘)をおこなっている双方の当事者に話を聞いてみたことがある。両村はそれぞれ唐の李世民の子孫を名乗る村と蜀漢の劉備の子孫を名乗る村だった。彼らの前回の「戦争」は約100年前の清朝末期の宣統年間におこなわれ、以来ずっと仲が悪く、2013年になって再度の開戦に及んでいた。

 こうした時間感覚を持つ人たちの社会において、1世紀にも満たない過去はかなり「最近」だ。中国国家が対日歴史問題を強調するキャンペーンをおこなうか否かとは関係なく、日中戦争で被害を受けた当事者の記憶は、すくなくとも日本と比べればはるかに濃厚に継承されている。当然、会ったことのない祖先や一族の誰かの被害を想像して悼む感情も日本人よりも強い。

 もちろん、だからといって近年の中国の「愛国暴走」を容認したり、日本が外交面でことさら弱腰になったりする必要はない。ただ、そもそも歴史に対する時間軸の認識が、現代日本人の場合は短すぎるため、近隣の他の文化圏の感覚が理解しづらいことは知っておいてもいいだろう。

 私が今月に刊行した『中国ぎらいのための中国史』は、諸葛孔明・元寇・孔子・アヘン戦争……、といった日本人なら義務教育段階で耳にする中国史の事件や人物が、中国でどうとらえられて活用されているかを読み解く「現代中国の本」だ。日本人が中国の歴史感覚を知るうえで、一助になれば嬉しい。

安田峰俊『中国ぎらいのための中国史』(PHP新書)
  • ◎安田峰俊(やすだ・みねとし)

中国ルポライター、立命館大学人文科学研究所客員協力研究員 1982年生まれ。広島大学大学院文学研究科博士前期課程修了。『八九六四 「天安門事件」は再び起きるか』が第5回城山三郎賞と第50回大宅壮一ノンフィクション賞、『「低度」外国人材』(KADOKAWA)が第5回及川眠子賞をそれぞれ受賞。他に最新刊『中国ぎらいのための中国史 』(PHP新書)はじめ、『恐竜大陸 中国』 (監修・田中康平、角川新書)、『戦狼中国の対日工作』(文春新書)、『北関東「移民」アンダーグラウンド ベトナム人不法滞在者たちの青春と犯罪』(文藝春秋)、『現代中国の秘密結社 マフィア、政党、カルトの興亡史』(中公新書ラクレ)、『八九六四 完全版』(角川新書)、『みんなのユニバーサル文章術』(星海社新書)などの著書がある。

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