家永三郎が書いたものを通時的に見ていくと、そこにはある「思想の変化」が露呈している (C)時事

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清張が描いた「歴史教科書の利権」

 松本清張に「カルネアデスの舟板」という短編がある。『文学界』1957年8月号に掲載されたこの作品は二人の歴史学者の葛藤がテーマである。主人公格の玖村は新進気鋭の「進歩的」歴史学者。対する大鶴は玖村の師匠で戦前には大変な権勢をふるっていたものの、その「国家主義」的言動がたたり戦後には公職追放の憂き目にあった人物。二人のあいだの葛藤といっても、そこにあるのは思想的なものではない。いかにも清張らしく、その葛藤は金と女と名誉という欲望をめぐるそれであり、とりわけ教科書執筆をめぐる利権がテーマなのである。

 玖村は、もともと大鶴恵之輔の弟子として国家主義的な歴史学者であった。戦時中は言論報国会に加わったくらいである。彼が敗戦後、マルクス主義の理論を適用し、唯物史観に走ったのは、学生の人気を得、著書をかいて、世間に名前を知られたかったのである。進歩的なことを云えば、学生の人気が集まり、著書が売れると思った……それはある程度成功したが、もっと予期しない成功は、教科書を執筆するようになってからであった。思いもよらぬ収入があった。それから、もっと分がいいのは参考書だった……教科書と合わせれば莫大な収入となった。家も、蔵書も、預金も、女も、悉くそれが基盤だった。(「カルネアデスの舟板」)

 一方、玖村の尽力で大学に復帰した大鶴も、恥じも外聞もなく「進歩」的論調に転向し、さらには教科書利権を自分の方にも回すように厚かましくも懇願してくる。そうしたかつての「師」のさもしい姿を見下し、優越感に浸る玖村の心理描写がしばらく続いた後、物語に転調をもたらすのは、政治の動きである。

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