転機を迎えた「日系ブラジル人」の今後

執筆者:出井康博 2010年3月号
エリア: 中南米 アジア

 昨年初め、中部国際空港には、乗り捨てられる新車が目立ったという。日系ブラジル人が多く働く東海地方では、不況の影響で“派遣切り”が相次いでいた。職を失った日系ブラジル人の帰国ラッシュが起きるなか、ローンでの支払いの残った車を空港に置いていく者がいたのである。
 そんな光景が今春もまた繰り返されるかもしれない。厚生労働省は昨年四月以降、失業して帰国する日系人に対し三十万円(扶養家族は二十万円)の支援金を渡してきた。その支給が終わる三月、駆け込みでブラジルへと帰国していく日系人が増加すると見られるからだ。
 JR名古屋駅から特急列車で四十分、岐阜県南部に位置する美濃加茂市――。約五万五千の人口に占める外国人の割合は一〇パーセント近くに達し、全国で二番目に多い。トップの群馬県大泉町と同じく、外国人住民の中心はブラジル国籍の日系人と配偶者たちである。
 市中心部の駅前には、ブラジルの大手銀行が支店を構える。商店街を歩くとポルトガル語の看板も多く、レストランやスーパー、教会、ブラジル人学校、美容院などが街中に点在している。ただし、シャッターを下ろしたままの店も少なくない。二〇〇八年秋の「リーマン・ショック」から続く不況が、日系ブラジル人社会にも及んでいるのだ。
 美濃加茂で日系ブラジル人が増えたのは一九九〇年以降のこと。同年、新たな出入国管理及び難民認定法(入管法)が施行され、日系人が「単純労働者」として来日できるようになったからだ。その多くが、自動車や電機関連の製造業が集中する東海地方を中心に仕事に就いた。美濃加茂では、九〇年にはわずか六人に過ぎなかったブラジル国籍者の数が、〇八年には四千人近くまで増えた。しかも、これは外国人登録者に限った数字で、実際にはそれ以上の日系ブラジル人がいたことは間違いない。
 だが、リーマン・ショックで状況は一変した。これほどの不況は日系ブラジル人にとっては初めての経験だ。日本での生活に見切りをつけ帰国していく者が続出し、美濃加茂の日系ブラジル人は〇八年末からの一年間で八百人近く減少した。
 現在、大手メーカーの一部には業績回復が伝えられるが、日系ブラジル人たちの生活は依然として厳しい。美濃加茂市定住外国人自立支援センターを委託運営するNPO(特定非営利活動)法人「ブラジル友の会」会長の金城エジウソンさん(四八)によれば、市内在住の日系ブラジル人の失業率は「女性で二割、男性は四割程度。仕事があっても、収入が大きく減っている人も多い」という。日本人にも共通する問題だが、日系ブラジル人の場合はより深刻である。
 帰国支援金の申し込み期限は三月五日だ。金を受け取ってブラジルに戻るのか。それとも日本に残って仕事を探し続けるのか。美濃加茂の日系ブラジル人たちに選択の時が迫っている。

カテゴリ: 政治
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執筆者プロフィール
出井康博(いでいやすひろ) 1965年、岡山県生れ。ジャーナリスト。早稲田大学政治経済学部卒。英字紙『日経ウィークリー』記者、米国黒人問題専門のシンクタンク「政治経済研究ジョイント・センター」(ワシントンDC)を経てフリーに。著書に、本サイト連載を大幅加筆した『ルポ ニッポン絶望工場」(講談社+α新書)、『長寿大国の虚構 外国人介護士の現場を追う』(新潮社)、『松下政経塾とは何か』(新潮新書)など。最新刊は『移民クライシス 偽装留学生、奴隷労働の最前線』(角川新書)
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