はたして少年A=酒鬼薔薇聖斗は、更生しているのか

執筆者:川名壮志 2023年7月22日
タグ: 日本
エリア: アジア
少年Aが酒鬼薔薇聖斗を名乗って神戸新聞社に送り付けた犯行声明文 (C)時事
残虐な殺人事件を起こし世間を震撼させた一人の少年が、更生保護委員会による「社会復帰に問題なし」との判断を得て医療少年院を出てから、来年で20年となる。社会復帰後も遺族の意向を無視して手記を出版するなど、彼の「更生」に疑問を抱く人は多いだろう。「元少年A」は本当に更生したのか。そもそも更生とは何なのか。数々の少年事件を取材してきた記者が考察する。

 

 神戸連続児童殺傷事件をおこした酒鬼薔薇聖斗こと少年A。

 すでに少年院を出て、私たちと同じ社会に暮らすAは、はたして更生しているのだろうか――。

 じつは、法律には「更生」の定義がない。更生の意味合いは、きわめて曖昧で、抽象的でもある。それだけに、何をもって更生したといえるのか、はっきりしない。

 それでも国が更生のために、絶対に必要だとする条件がある。

 再犯をしないこと、だ。

 かつて刑法に触れる行為をした少年に、再犯をさせないこと。それが、国の更生保護政策の最優先課題として位置づけられている。

 少なくとも、Aは再び人を殺めるような「犯罪」はしていない。

 だが、一般社会で暮らす私たちにとって、更生とはどのようなものだろう。再犯していないこと=更生している、と受け止める人が、どれほどいるだろうか。

 おそらく、そこにはズレが生じる。少年Aの存在が、私たちを揺さぶる理由は、彼の行動が、まさにそのズレを突くからだろう。

 再犯こそしていないが、本当にAは大丈夫なのか――と。

 少年Aは、更生しているのか。それを考えるにあたって、まずはAが社会復帰してから、今に至るまでの流れをたどる。

21歳で社会にでた少年Aのその後

 一般的に、少年院に入った少年は、二段階で社会復帰する。いったん少年院から仮退院をして、国に保護観察される期間を経て、それから正式に退院をする――というのがセオリーだ。復帰までに助走の時間をもうけ、社会になじませる(社会内処遇という)。Aについても、この手続きが踏まれている。

 Aは、2004年3月10日に関東医療少年院を仮退院した。彼とじかに面談した関東更生保護委員会が、「社会復帰に問題なし」と判断したからだ。事件当時14歳だった少年は、このとき21歳になっていた。

 少年院にいたのは、6年5カ月。それは、短いのだろうか。十分に長かった、ということになる。というのも、当初は5年半(03年春の仮退院)の予定だったのだ。じつは、人を殺めた少年でも、たいていの場合、もっと早く少年院を出ている。

 Aの仮退院による保護観察の期間は、04年12月31日までの10カ月。そのあいだにAを監督し、支援したのは保護観察所(法務省の出先機関)だ。この組織によるAへのケアは、特別に手厚かった。着替えと日用品が入ったボストンバッグ一つで退院した彼に、東京保護観察所は、まず監察官3人をつけて、生活基盤の安定を図る。

 最初に入った東京都内の更生保護施設(出所者が寝泊まりする宿舎)では、すぐに「少年A」であることがバレ、別の施設への転居を余儀なくされた。だが、保護観察所はその後の転居先からアルバイト先の選定まで、すべて手配した。

 仮退院から2カ月がすぎると、Aは東京を離れて、身元引受人となった里親の元で生活する。そして保護観察期間が終わるまで、この里親夫婦が住む一軒家で、息子(・・)として暮らした。夫婦の面倒見は良く、この夫婦を通して、近所づきあいもしている。

 仮退院という助走期間を、とりたててトラブルもなくすごすと、Aを引き留めるものは、もう何もなかった。2005年1月、彼は正式に退院した。彼はプレス工として働き、里親の近くにアパートを借りて一人暮らしを始める。晴れて自由の身になることは、国が更生の責務を終えたことを意味した。

 だが、Aには里親が随時連絡を取って相談に乗り、元付添人を中心とする弁護士も無償でかかわるなど、支援態勢は整えられていた。周囲は彼を見捨てたわけではない、ということだ。

 ところが、Aは本退院後、わずか半年でプレス工を辞め、行方をくらましてしまう(といっても、法律的には何ら問題がない)。

 カプセルホテル暮らしをへて、05年12月に建設会社の契約社員になると、社員寮に住みながら、主に解体工事をしていたという。

 新しい生活をはじめた数年は生活が安定したが、意外な外圧が彼を襲う。2008年以後のリーマン・ショックだ。社員の契約更新をしない「雇い止め」が横行し、Aも09年6月に契約を打ち切られる。その年の9月に溶接工になるが、やがてその職も辞めたようだ。

 そして、彼は2015年6月、手記『絶歌』を出版し、世間に衝撃を与える――。

 以上が、Aが社会に復帰して以後の流れだ。

 こうした経歴は、彼が『絶歌』でも明らかにしているので、あえて触れた。その経緯をみればわかるように、国も更生関係者も、Aが一般社会で生活できるように、正式退院後も、環境を整えていた。しかし、Aはみずからその環境を放棄した。

(『絶歌』では「僕は、これまでずっと誰かや何かに管理されてきた。逮捕されるまでは、親や学校や地域社会に。逮捕後は国家権力に。社会復帰後は、Yさん〈筆者注・里親〉を始めとするサポートチームのメンバーに。」と記しており、こうしたサポートも「管理」ととらえていたフシがある)

 ただ、くりかえすが、Aは手記を出版したものの、再犯をしたわけではない(2023年7月現在)。彼を社会復帰させた国に責任がある、と一概にはいえないだろう。

 少年院を退院後、すぐに再犯をしてしまった元少年もいる。

 Aの更生にあたって、国がもっとも怖れていたのは、そちらのケースだろう。

出所後に、また人を殺めた少年も

 人を殺めた少年が、社会復帰した後に、再び人を殺める。そうした再犯のケースがある。

 たとえば、1979年の三菱銀行人質事件が、それにあたる。

 この事件では、大阪市の三菱銀行の支店に猟銃を持った30歳の男が立てこもり、行員や客を人質にし、人質と警官の計4人を殺害した(発生から42時間後に男は射殺される)。

 この事件は、じつは再犯だった。男は15歳のときに、主婦を殺した強盗殺人で、少年院に収容されていたのだ。だが、わずか1年半で社会に出て、その十数年後に、再び殺人事件を起こした。

 2005年には、大阪市で22歳の男が若い姉妹2人を殺す事件があった。この男もまた、16歳のときに実母を殺し、少年院に入っていた。男は事件から3年後に社会に出ていた(大阪市の事件で死刑が確定。2009年に執行された)。

カテゴリ: 社会
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執筆者プロフィール
川名壮志(かわなそうじ) 1975(昭和50)年、長野県生れ。2001(平成13)年、早稲田大学卒業後、毎日新聞社に入社。初任地の長崎県佐世保支局で小六女児同級生殺害事件に遭遇する。被害者の父親は直属の上司である同支局長だった。後年事件の取材を重ね『謝るなら、いつでもおいで』『僕とぼく』などを記す。他の著書に『密着 最高裁のしごと』『記者がひもとく「少年」事件史』がある。
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