東日本大震災から13年、異常高温で再び危機に陥った石巻「十三浜ワカメ」を守る住民と消費者の絆

執筆者:寺島英弥 2024年3月11日
カテゴリ: 社会
エリア: アジア
ワカメの収穫が始まらない大室漁港に立つ佐藤清吾さん。海の温暖化という新たな災害に思案を巡らせる=2024年2月15日=石巻市の十三浜

 東日本大震災から13年が経つ。津波による多くの犠牲から復活した三陸の名産「十三浜ワカメ」を、異常気象による高水温が襲った。今季の収量激減という漁師たちを支えるのは街の消費者だ。生業を未来まで守るというつながりの力を追った。

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 肉厚で美味な「十三浜ワカメ」の産地として知られる宮城県石巻市の十三浜地区。東日本大震災の津波で多くの身内を失った住民たちは、山林に住みかを拓き、壊滅した浜の生業を復活させた。しかし、三陸の海は猛暑の昨夏からの異常高水温の影響で、今が収穫期のワカメがすでに半減、さらに悪化の事態にある。新たな自然災害がのしかかる住民に寄り添うのは、震災後、十三浜ワカメを買って食べ応援を続ける消費者たちの会。「支援とは、良い時も悪い時も、生業と暮らしを守っていくこと」と共に未来を模索する。

津波から復活のワカメ、海の異変で半減

 十三浜は石巻市北端、三陸海岸の追波湾(北上川河口)に面し、小さな入り江や浜に13の漁業集落が連なり昔から豊かな海産物で知られた。2011年3月11日の東日本大震災では、波高15メートル前後とされる大津波が全集落をのみ込み、当時の住民約2400人のうち296人が死亡、行方不明になった。二つの集落が消滅し、生き延びた住民の多くは石巻市街などへ新天地を求め、残る選択をした住民は仮設住宅を経て集落ごとに高台へ移転した。

2011年3月11日、津波に流された大室集落の家々=石巻市の十三浜(佐藤清吾さん撮影)

 2年ぶりの取材で訪ねた十三浜の大室地区も、漁港に面した集落跡は共同作業場や漁具小屋が立つのみ。震災前の53世帯の約半数の住民が、海抜30メートルの山林を拓いた集団移転地に新しい家を建てて暮らす。その一人が元十三浜漁協組合長、佐藤清吾さん(82)。津波で妻と孫、3人の兄姉、2人の甥、10人のいとこを失いながら、震災後も(改組した宮城県漁協)北上町十三浜支所運営委員長を担い、壊滅したワカメ養殖などの生業再生に尽力してきた。 

 清吾さんは顔を合わせるなり、「近隣の牡鹿半島(石巻市)の漁師仲間を回ってきたのだが、大変なことになった」と嘆息をついた。「(養殖が盛んな)カキがほとんど死滅し(同じ養殖の)ホヤも大半が死んで海に落ちたそうだ。カキの水揚げは例年5月まで続くが、年が明けたら終わってしまった。去年の異常な暑さで海水温も高くなったためだ」

 同じ被災地、牡鹿半島名産のホヤは、津波被害からの養殖復活も束の間、大消費地の韓国が福島第一原発事故を理由に輸入を禁止し、市場縮小と値崩れから生産者の廃業も相次いでいた。昨年夏の海水温が養殖の適温を上回る状態が続き、大量に斃死(へいし)したのだ。

 気に掛かっていたのは、十三浜ワカメへの影響だ。ワカメの養殖は例年、地元の海の水が冷たくなる10月に、養殖ロープに種(稚苗)を挟み込んで沈め、育てる。が、昨年夏は記録的猛暑で近海の海水温は平年より4~5度も高く、秋になっても暖かいままだった。

 「海水温が22度以上だと種が死ぬ。冷えるのを待つうちに11月、12月と時期が遅れた。海に入れた養殖ロープに種が根付かぬうち、今年1月に大しけに襲われ、海に落ちてしまった」と清吾さん。1月下旬、低気圧の強風と高波で海が二昼夜、大荒れになったのだ。

 訪ねた時期は例年、大室など各漁港で朝、漁師たちが船いっぱいに刈ったワカメを(塩蔵のため)大釜で湯通しする作業がたけなわで、もうもうたる湯煙が風物詩でもある。「だが、今年はまだ始まらない。収穫するものがないんだ」。生き残った種もあるが、半減だという。隣接する南三陸町や気仙沼市でも被害は甚大と『河北新報』が報じた。

 大しけはこの後も現地を襲い、ワカメの被害はさらに続いた。 

70年近く続いた浜の生業、壊滅からの決意      

 「十三浜ワカメ」は、三陸の外洋と北上川河口の汽水が交わる栄養分豊富な荒波に育てられ、葉肉が厚く、締まって、ぷりぷりとし、全国の市場から「ブランド」と認められてきた。「ここのワカメは、60年近い歴史がある」と清吾さん。

 「この浜にも出稼ぎがあったんだ。田んぼのない、貧しい半農半漁の村だった。高度経済成長期の東京方面へ、全国へ、現金収入を求めて、みんな出ていった」。十三浜で出稼ぎをする漁業者の家は一時、200戸にも達した。毎年4月から10月まで出稼ぎ先で働き、11月からのアワビ漁のために帰ってきた。アワビは、1日捕れば、ひと月分の収入を稼げた。それに、半年出稼ぎ先で仕事をすると、残り半年分の失業保険をもらえた。そして、翌年の漁閑期になると、また集団で行った。

 清吾さんは26歳で分家してマグロ船に乗るなど、出稼ぎに行かなかった。「家族と半年も別れて暮らす不自然に、何とかやめられないかと誰もが思っていた。そして、ワカメの養殖が世に出た」。ワカメ養殖の創始者、大槻洋四郎= 宮城県出身=が戦前の旧満州(中国東北部)で兵隊の食料用に養殖試験を成功させ、戦後、牡鹿半島で種苗を付けたロープを海に垂らし量産する「垂下式」を広めた。さらにシケに強い、ロープを水平に張る養殖方法も生まれ、安定して高品質のワカメ生産を根付かせた。その最適地が十三浜だった。ワカメは十三浜の住民を出稼ぎから解放し、自立、自助の生き方を教えたという。

 1998年に十三浜漁協組合長となり(宮城県漁協発足で2007年から1年間、初代北上町十三浜支所運営委員長)、大震災が起きた当時は、隣浜の義兄のワカメ養殖を手伝っていた。家族、親戚を亡くした失意から、十三浜を離れて、仙台郊外にいる長男と暮らそうと決めていた。ところが、地元の漁師たちが清吾さんを囲んで連日、「もう一度、運営委員長をやってくれ。あんたしかできない」と訴えたという。「もう人のことをできる状態ではない」と断ったが、最後には「この惨状から逃げないでくれ」と懇願され、引き受けざるを得なかった。が、すべてを流され失った地域立て直しの労苦もまた未曽有のものだった。

 十三浜には388隻の漁船があったが、津波の後に残ったのは40隻のみだった。「津波から残った漁船を皆の共同作業に提供してもらい、漁協が手当を出すことにした。一人の仲間も落ちこぼれさせたくなかった。みんなで復活しようと呼び掛けた」。がれき処理の日当で避難所の家族を支えた漁師たちには、ワカメ養殖の漁場再生がただ一つの希望だった。

 十三浜の養殖ワカメが復活したのは翌2012年の収穫期。宮城、岩手の三陸産ワカメが前年に壊滅し、全国で品不足となった12年3~4月の入札会で、十三浜ワカメは10キロ当たりで2万円前後の最高値を続けブランドを回復した。「ボランティアや支援者の人たちの応援や資金、設備の寄付もあり、その出会いが自分をも立ち直らせた」と清吾さんは語った。

津波で全滅したワカメ養殖が復活し、収穫後の湯通し作業たけなわの大室漁港=2014年4月18日

住民に学び「わかめクラブ」立ちあげ

 「十三浜わかめクラブ」。仙台市内のシェアオフィスに事務所を置く市民団体だ。代表の小山厚子さん(67)はもともと月刊誌「婦人之友」の地元記者で、2011年3月下旬、被災して間もない十三浜に入り、初めて住民の声に触れたという。避難所の女性たちから「男の人に頼みにくい、ブラジャーを持ってきて」と言われ、お礼に、と黒いものを手に載せられた。海藻のヒジキだった。ちょうど3月11日が十三浜のヒジキ採取の解禁日で、午前中に総出で摘んだという。避難生活の貴重な糧を分けてくれた気持ちに打たれながら、「住民が暮らしの資源を大切に管理し、共生してきた歴史に触れた」と振り返る。

一緒にワカメの袋詰め作業をする十三浜の女性たちと「わかめクラブ」の会員。笑顔の交流が続いている=2014年5月10日

 最初の十三浜訪問でハガキも100枚持参した。「電話、郵便局もなくなり、誰かに近況を伝えることも難しい」と慮ったのだが、住民たちからは「どこにハガキを出せというの。家も住所録もなくしたのに」と半ば怒られた。小山さんは「独りよがりの支援は無意味」と思い至り、何度も通って十三浜を知ることに徹した。清吾さんら漁師たちから、ワカメ流出で1年の収入を失い、翌年の養殖再開へ必死に働く状況を語られた。単発の現地レポートでは足りず、さらなる話し合いから、継続的な応援を立ち上げることに思い至った。

 「十三浜わかめクラブ」は養殖復活の翌13年に発足した。「婦人之友」誌上でワカメ、コンブの購入を呼び掛け、小山さんが清吾さんら生産者とのつなぎ役になって、全国の読者から主婦のグループ、個人まで毎年1000件近い注文が寄せられた。その間、小山さんは十三浜の暮らしを伝える「通信」を書き続け、5月の袋詰め、発送作業には、「食べる人が作る人の現場を学ぼう」と購入者たちと現地を訪ねて参加、住民と交流してきた。

 20年4月小山さんは活動を非営利任意団体「浜とまちをつなぐ十三浜わかめクラブ」として自ら引き継いだ。これまで売り上げを生産者に返し、収益が出れば、海の作業用の合羽ズボン、手袋、長靴を、漁協を通して贈ってきた。それを一歩進め、国の被災地支援のような「終わりが来る関係」でなく、「十三浜の人たちと、生業と食卓を未来まで支え合う」運動にしていくという。その方向が正しいと実感させたのが、新たな災害となった海の温暖化、そして今年1月1日に起きた能登半島地震だった。

ワカメの袋詰め、発送を終え、十三浜の女性ら仲間と「わかめクラブ」自慢の品々を手にする小山さん(右から2人目)=2023年5月(小山さん提供)

能登につながる、共に歩む支援を

 「(東日本大震災が起きた)13年前、あれほど辛い思いをさせられた難儀が、今度は能登半島で……。なんとむごく、いたわしいことか」。清吾さんは、大室集落の50戸余りの家と同胞を呑んで漁港の外へ流し去った大津波の記憶と、多くの集落が全壊した能登の被災地のニュースを重ね、うめくように言った。すでに見舞金を、津波の後に復活させた「大室南部神楽保存会」と漁協十三浜支所から現地に送ったそうだ。また、中古の漁船を譲ってほしい、という石川県漁協からの依頼が、地元の漁師たちに周知されているという。能登半島の北岸で海底が広く隆起し、多くの漁船が港々で座礁した事態からの応援要請だった。

 清吾さんがさらに衝撃を受けたのが、能登半島の被災地をつなぐ道路が寸断され、沿線の住民も孤立して満足な避難場所さえ乏しい状況だった。2月25日の河北新報は『現地の24地区3345人が孤立状態に陥り、石川県が北陸電力志賀原発(注・運転停止中)の重大事故時の避難路に定めた国道や県道計11路線のうち7路線で通行止めが発生した』と伝えた。

 「十三浜は(30キロ圏にある)女川原発の再稼働に支所を挙げて反対してきた。東日本大震災並みの地震再発も予測され、国は能登半島地震を教訓に避難計画を見直すべきだ」と清吾さん。仙台高裁で控訴審が行われている女川原発再稼働差し止め訴訟に参加し訴えている。十三浜ワカメが復活の翌年、福島第一原発の汚染水流出事故の風評被害に巻き込まれた理不尽で苦い経験もある。

 「ここのリアス海岸の一本道の地形はいまだ13年前とも、能登半島とも変わりなく逃げ場がない。どんな災害からも、未来永劫、この浜を守らなくては」

 小山さんは能登地震のテレビ報道で「観光で有名だった輪島朝市――」「名所の白米千枚田――」などと前置きされる度、強い違和感を募らせた。「観光のためでなく、浜の人、山の人が暮らしの場で作るもの、採れるものを持ち寄ってきた市。平地のない海辺に営々と苦労して拓いた田。その成り立ちも背景も、テレビの人は知らない、伝えられない」

 心に焼き付いたのは、倒壊した自宅で亡くなった妻が重箱にブリ大根を残していた、という新聞記事。孤立した集落からヘリで救出されるお年寄りたちが「離れたくない」と泣いていたニュース映像。「地元の海の寒ブリの料理に家族が集った冬。深い自然の中で寄り添った人と人のつながり。そんな暮らしがなくなってゆく悲しさを誰もが訴えていた」

 コンビニもバスの便もない、あるのは自然、という環境で助け合って生きる人々がいる。それを過疎、消滅地域と切り捨て、東日本大震災後のように「復興」の名でコンクリートの建物に押し込めるのは間違い――。

 「人が生きる場には暮らしと生業の形、文化がある。私たちは十三浜との交流を通して、その一つ一つを学んできた。今の温暖化が進めば、食べ物をはぐくむ環境は悪化するかもしれない。心配だけれども、清吾さんら十三浜の人たちには『あの震災を乗り越えたんだ、皆で頑張ろう』という絆の力がある。私たちも共に悩み、考え、歩んでいく」と小山さん。

 それが能登の被災地にもつながる支援の形ではないか。

⑥コロナ明けで4年ぶりに練り歩いた「春祈祷」の獅子。十三浜の人々が守る暮らしの象徴だ=2024年2月4日、移転先の大室団地(小山さん提供)
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執筆者プロフィール
寺島英弥(てらしまひでや) ローカルジャーナリスト、尚絅学院大客員教授。1957年福島県相馬市生れ。早稲田大学法学部卒。『河北新報』で「こころの伏流水 北の祈り」(新聞協会賞)、「オリザの環」(同)などの連載に携わり、東日本大震災、福島第1原発事故を取材。フルブライト奨学生として米デューク大に留学。主著に『シビック・ジャーナリズムの挑戦 コミュニティとつながる米国の地方紙』(日本評論社)、『海よ里よ、いつの日に還る』(明石書店)『東日本大震災 何も終わらない福島の5年 飯舘・南相馬から』『福島第1原発事故7年 避難指示解除後を生きる』(同)、『二・二六事件 引き裂かれた刻を越えて――青年将校・対馬勝雄と妹たま 単行本 – 2021/10/12』(ヘウレーカ)、『東日本大震災 遺族たちの終わらぬ旅 亡きわが子よ 悲傷もまた愛』(荒蝦夷)、3.11以降、被災地で「人間」の記録を綴ったブログ「余震の中で新聞を作る」を書き続けた。ホームページ「人と人をつなぐラボ」http://terashimahideya.com/
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