大震災の地「東北」と「ネパール」で考えた「共助」

寺島英弥
執筆者:寺島英弥 2015年8月4日

 4月25日、ネパールでマグニチュード7.8の大地震が起きてから、3カ月が経過した。被災者は約800万人、周辺国を含めた死者は約9000人と報じられたが、いまだに全貌は分かっていない。貧しく、海外の援助に依存する同国政府の調査、救援の手が、奥深い山岳地帯を抱える国土の全域に届いていないこと、海外メディアの取材も主に首都カトマンズ周辺など交通の便の良い地域に限られてきたことなどがその理由だ。6月中旬、エベレストに近い同国東北部の村々を訪ねる機会を得た。知られざるヒマラヤの被災状況と、住民たちの「共助」の原点とも言える復旧の努力を報告する。

弱かった「れんが造り」の建物

 今回のネパール行は、1996年、河北新報の「オリザの環(わ)」(97年度新聞協会賞)という連載の取材で筆者がヒマラヤの村を訪れて20年目を迎えたのを機に、同じ村が大地震でどうなったのか、どんな支援が必要なのか――を、2011年の東日本大震災を経験した東北の読者に伝え、つなぐのが目的だった。
 6月10日、カトマンズから東北部のソルクンブ県にある標高約2400メートルの町パプル(Phaplu)に飛び、そこから歩き始めた。カトマンズからエベレスト方面をじかに結ぶ開発道路が現在、パプルの先まで掘削されているが、一般車両が通れる状態になく、日本の江戸時代の旅さながらに誰もが歩く。パプルからの道は、世界中のトレッキング愛好家に知られる「エベレスト街道」につながり、世界最高峰のふもとのナムチェ・バザールまで約50キロ、険しい山の集落をつないで続く。沿道の村々や市場へ食料、物資を運ぶシェルパ族のポーターたちやロバの列が行き交う。
 パプルの町外れに、再建工事中のロッジが数棟あり、避難生活用の青や黄色のテントが隣の牧草地に並んでいた。しかし、ほかに大規模な建物崩壊の現場はみられなかった。そうした状況は、標高約3000メートルのタキシンド(Taksindo)峠を越え、下った先にあるヌンタラ(Nunthala)という宿場の村に至るまで変わらなかった。ただ、壁にひびが入ったり、一部が崩れたりしたロッジや家々はあり、外国からの支援で配られた簡易な天幕を雨よけの覆いに使い、屋根にかぶせている光景が目に付いた。
 無残な建物崩壊は、カトマンズで数多く見られた。4月25日の大地震発生後、真っ先に報じられた写真の1つが、世界遺産の寺院群や旧王宮が崩れ落ちたダルバート広場の光景だ。その近く、観光客向けの土産物店が集まるタメルという商店街にも点々と崩壊現場があった。共通しているのは、古いれんが造りの建物であることだ。現地の人々が立ち上げた被災地支援NPOのメンバーから、カトマンズ郊外の支援先の写真を見せてもらう機会があったが、やはり、古いれんが造りの民家が立ち並んだ村が地震で丸ごとつぶれた状況を確認した。
 大地震は、エベレスト街道の村々でも経験したことのない激しさだったと聞いた。「家の壁も床も家財道具も、自分も、まるでダンスを踊っているように揺さぶられ、立っていることもできず、必死で外に逃れた」と住民たちは口をそろえた。にもかかわらず、「一村崩壊」のような悲劇を免れた理由は、れんが造りでなく、石で造られた建物の強さにあったと感じた。

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執筆者プロフィール
寺島英弥
寺島英弥 河北新報編集委員。1957年福島県生れ。早稲田大学法学部卒。東北の人と暮らし、文化、歴史などをテーマに連載や地域キャンペーン企画に長く携わる。「こころの伏流水 北の祈り」(新聞協会賞)、「オリザの環」(同)、「時よ語れ 東北の20世紀」など。フルブライト奨学生として2002-03年、米デューク大に留学。主著に『シビック・ジャーナリズムの挑戦 コミュニティとつながる米国の地方紙』(日本評論社)、『海よ里よ、いつの日に還る』(明石書店)。3.11以降、被災地における「人間」の記録を綴ったブログ「余震の中で新聞を作る」を更新中。
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