「ヨコヅナ」から「ダライ・ラマ」へ:イチロー「メジャー18年」の有為転変

執筆者:川口勝男 2018年5月17日
カテゴリ: 国際 スポーツ
エリア: 北米 日本
再び「選手」としてのこの勇姿を見られるのか(C)AFP=時事

 

 レジェンドが再びベンチに帰ってきた――ただし、選手としてではなく。

 今季の全試合不出場を宣言したばかりの「シアトル・マリナーズ」イチロー外野手が、5月12日に敵地で行われた「デトロイト・タイガース」とのダブルヘッダーで、コーチ役としてベンチに入った。スコット・サービス監督が長女の卒業式に出席したため首脳陣の枠が空き、2試合で監督代行を務めたマニー・アクタベンチコーチのサポートに回った。たとえグラウンドで躍動はしなくても、その一挙一動に注目が集まったのは言うまでもない。

旨味のある破格の条件

 5月3日に会長付特別補佐に就任し、フロント入り。「生涯契約」となったことで日本はもちろん、全米中を驚かせた。今季は出場選手登録枠から外れてプレーすることはなくなったが、現役を引退したわけではなく、チームに帯同しながら練習を続けている。現段階では、来年3月20、21日に日本の東京ドームで予定されている「オークランド・アスレチックス」とのMLB開幕戦で、海外での公式戦は規定により選手登録枠を増やせることから、限定的な復帰を果たすとの見方が強い。以降も、チーム内で故障者が出た場合などに選手としてプレーする可能性があるという。歴史の長いメジャーリーグでも異例の契約内容となった背景には、球団側のイチローに対する畏敬の念がうかがえる。

 マリナーズとしては、もちろん来年3月の日本開幕戦に超目玉のイチローを何としてでも出場させたい。しかしチーム内では、成長著しい若手外野手の面々が台頭中。そうかと言って、キャンプ不参加で調子の上がらないイチローをマイナーに落とせばレジェンドのプライドに傷がつく。地元ファンの反発も大きいはずだ。

 その落としどころとして編み出した方法が、この生涯契約でのフロント入りだった。球団側にはそれなりの下心が見え隠れするにせよ、やはりイチローがマリナーズの大功労者であることは球団側もよくよく認識しており、その「ブランド」をそう簡単に手放すわけにはいかない。

 一方、イチローにとっても、この契約は渡りに船だ。仮にマリナーズからのフロント入閣要請を突っぱねて契約を破棄し、FAになったとしても、いまさら他のメジャー球団からお呼びがかかるとは考えにくい。今年45歳を迎える自身の立場がもはや“売り手市場”に置かれているわけではないことぐらい、百も承知であろう。そういう厳しい立ち位置にいるにもかかわらず、今季はやむを得ないにせよ、来季は選手としての復帰が努力次第で可能になるだけでなく、フロントの要職としてマリナーズに生涯面倒を見てもらえるのだ。実際のところ、こんな旨味のある破格の条件はないはず。つまり、お互いの利害関係が合致したということだ。

「変人だから」

 マリナーズのジェリー・ディポトGMはイチローについて、「彼はダライ・ラマのような存在だ」と語った。この言葉こそ、まさに球団側が彼に対して最大限のリスペクトを示している何よりの証拠と言える。

 しかしながら、かつてのイチローにはマリナーズで“煙たがられていた時代”もあった。2001年から2012年7月まで在籍していた「マリナーズ第1期」。ルーキーイヤーにいきなり新人王、首位打者、リーグMVPなど様々なタイトルを手中に収めた。その後の活躍は、ここであらためて振り返るまでもない。そんな稀代のスーパースターを取材しようと、当時は決まって日本からメディアが大挙して訪れ、マリナーズのクラブハウスは“イチロー取材陣”であふれ返ることが多かった。

 これに、イチロー自身が嫌気を覚えていた。メジャーリーグは日本のプロ野球と違い、試合前と試合後の2度に渡り、限られた時間のみクラブハウスが開放され、メディアの取材が可能になる。原則として選手は取材に応じなければならず、イチローもそれに則り、対応するようにしていた。だが余りにも人数が多い上、息つく間もなく矢継ぎ早に向けられる質問攻勢に、次第に辟易するようになっていた。加えて、「今朝は何を食べましたか?」「緊張していますか?」など陳腐な質問には露骨に怒りを爆発させるようにもなり、段々と日本の報道陣に対して壁を作るようになった。

 試合が終わり、シャワールームから腰にタオルを巻いて出てくると自分のロッカーの前のイスに腰掛け、扇子でパタパタと身体を扇ぐ。着替え終わってもロッカーの前を取り囲んだ報道陣にはイスに座って背を向けたままで取材に応じる。これが、マリナーズ初期の頃の“イチロースタイル”だ。

 質問に対しても、「言っている意味が良く分からないんですよね」「ちゃんと考えて聞いていますか?」などと厳しい言葉で返し、まともな返答にならないことが多かった。そのやり取りを見ていた米メディアの面々がイチローに名付けた隠語は、「ヨコヅナ」。日本の大相撲で床山が背を向けて座っている横綱の髷(まげ)を結う場面を連想させることから、そう呼ばれるようになっていたのだ。

 日本の報道陣も次第にぎこちない雰囲気を敬遠するようになり、その数も段々と減っていった。無論、イチローにも言い分はある。彼はよくこう口にしていた。

「自分がしっかり準備を重ねてプレーに全力を注いでいるように、メディアの方々も同じように準備を重ね仕事に全力を注いでほしい」。

 当たり前すぎるほどの正論である。イチローは、記者にとっての取材現場を自身のグラウンドと同じく勝負の場と見ていた。だからこそ、何も考えず明らかに準備もしていないような陳腐な質問には徹底して冷たくあしらった。イチローから振るいにかけられた挙句、厳選されて生き残った“番記者”だけがロッカーの前に立つことを許されるようになっていった。

 地元メディアとやり合うことも少なくなかった。舌鋒鋭いコラムニストが独自の主観だけでイチローバッシングに走るような記事を掲載すると、目の前に姿を見せた時に自分の主張を展開して猛反論することもあった。チームの低迷期には、その地元メディアを通じて士気が足りない複数の選手の実名をチラつかせながら槍玉に上げたことも1度や2度ではなかった。

 そうこうするうちに、地元メディアの野球記者たちからは逆に、「自分の成績がいいからといって暴走し過ぎではないのか」と叩かれ、さらには「確かにイチローは偉大な選手であるものの、“フォア・ザ・チーム”の精神に欠けている」とまで指摘された。チームメートからも「イチローはスプーキー(変人)だから」と距離を置かれ、成績面に関しては崇められつつも、気難しい性格の持ち主ゆえに接しにくい人物として浮いてしまっていた。

「険」が取れた

 それが変わったのは、2009年のシーズン。日本プロ野球時代から憧れの存在だったケン・グリフィー・ジュニアが10年ぶりにマリナーズへ復帰したタイミングだった。4歳年上のグリフィーがイチローをイジり、イチローもまたグリフィーとじゃれ合う。2人は意気投合し、イチローはそれまで見せたことのないような屈託のない笑顔を随所で浮かべるようにもなった。

 イチローから「険」が取れたのは、グリフィーの存在が大きかったと指摘する関係者は多い。グリフィーが引退した際、イチローは「人の心の痛みが良く分かる人。僕の中では守られているという意識が凄く大きかった」と語っている。このコメントから察するに、グリフィーの生き方から、それまで自分が忘れかけ気付かずにいた観点について教えられたことがあったのだろう。

 2012年7月に「ニューヨーク・ヤンキース」へトレード移籍。ここではデレク・ジーターやアレックス・ロドリゲスら多くのスーパースターたちとチームメートになる。シアトルから移籍した大都市ニューヨークの名門チームで「世界一手厳しい」と評されるNYメディアと日々顔を向き合い、並み居るスター選手たちが紳士球団の名の下に嫌な顔ひとつ浮かべずきっちりと取材対応する姿勢に、カルチャーショックを受けた。

「ヤンキースに来た時のイチローはとても謙虚だったよ。もっと個人主義に走るタイプかとも思っていたが、それは間違いだった。新しいチームのヤンキースで多くのことを学び、吸収しようという気持ちを常に持っていた。そういう姿勢があるからこそ、彼は今もメジャーリーグで長い期間、プレーできているのだと思う。特別な存在であることは誰もが認めるところだ」と回想するのは、イチローの獲得に尽力したヤンキースのブライアン・キャッシュマンGMだ。

「選手たちが可愛くて仕方がない」

 2015年から3年間在籍した「マイアミ・マーリンズ」ではクリスチャン・イエリッチ(現「ミルウォーキー・ブルワーズ」)やジャンカルロ・スタントン(現「ニューヨーク・ヤンキース」)、ディー・ゴードンらメジャーを代表する若手選手たちから羨望の眼差しを向けられ、崇拝された。特にゴードンはイチローを師と仰ぎ、今季はマリナーズで同僚となっている間柄だ。このマーリンズ在籍時代、チーム最年長となっていたイチローは、若い同僚たちについて、よく「本当に選手たちが可愛くて仕方がない」と公言していた。

「自分が学生の頃に見て憧れていたイチローとプレーできるなんて夢のようだ。プレースタイルだけでなく練習方法、コンディションの作り方に至るまで、とにかく彼のすべてを吸収したい。野球に対する取り組み方、考え方にも共感できることばかりだ。あんな偉大な人物はいない。これまでも彼には数多く質問を繰り返しているけれど、聞くことが毎日次々と出てくるから永遠に終わらないだろうね」と、ゴードンは笑いながら師・イチローについて語っていたことがある。

 こうして振り返ってみると、“尖がっていた時代”から現在の“悟りの境地を切り開いた時代”まで、イチローに大きな思考の変遷があったことに気付く。自身の内面で幾多の葛藤を繰り広げてきたであろうことは想像に難くない。特筆すべきことは、群雄割拠のメジャーリーグでどのようなシチュエーションにあっても、18年の長きに渡りトップ選手の地位を守り抜いてきたという点だ。果たして来季、本当に選手として復活するのか否か、その去就に注目したい。

 

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執筆者プロフィール
川口勝男 スポーツジャーナリスト。
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