「国民服」は1980年代まで成人男性の標準スタイルだった(C)AFP=時事

 

里見弴『隣邦の今昔』(『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 このシリーズで取り上げてきた米川正夫柳田謙十郎安倍能成桑原武夫宇野浩二らの中国に対する姿勢は、おしなべて“拝跪”と表現するしかない。混乱と頽廃の旧中国は消え去り、あたかも道義国家の新中国として生まれ変わったことを伝える。中国政府の掌の上で、まるで己を失くしたかのようだ。彼らもまた中国を前にした時の日本人の悪癖――ある種の思い込み、あるいは先入観や既成観念にとらわれるあまり目の前の現実から目を逸らしてしまう――から逃れられなかったということだろう。どうすれば、この悪癖を克服できるのか。

「退屈」だった新中国

 小説家の有島武郎と画家の有島生馬を兄に持ち、『善心悪心』や『多情仏心』などを著した里見弴(明治21~昭和58年=1888~1983年)は、「(中国政府の)旺盛なる意図を、賢らに揣摩臆測することは私の性に合わないから、いとも単純に、たぶん日進月歩の隆々たる国運を見せたいのだろう、と先方の子供ッぽさをこちらでも無邪気に受けとって置くのが、よしんば後年そうでなかったことがはっきりして来るにしても、別だん恥じるに足らぬ上品な態度だろう」と自分に言い聞かせるかのようにして、1956(昭和31)年10月に中国に旅発った。

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