バイデン政権の大統領科学顧問に就任したエリック・ランダー氏。同氏はヒトゲノム地図の作製に携わったことで知られている  ©︎EPA=時事
「専門家の意見」と菅首相は繰り返すが、医師と医系技官の間だけで決まる日本のコロナ対策には決定的な死角が生じている。情報工学の活用がないために、ゲノム解析からのアプローチや感染リスクのモデル研究がなおざりとなり、対策は世界とかけ離れた隘路に入ってしまった。

 新型コロナウイルス(以下、コロナ)対策で日本は一人負けだ。科学技術先進国で、世界に誇る医療システムを有する日本が、なぜ、こんな状態に甘んじるのか。私は、数学者を活用できていないからだと考えている。一体、どういうことだろうか。本稿では、日本のコロナ敗戦の真相をご紹介したい。

 日本のコロナ対策の特徴は、「お医者さん」が仕切っていることだ。医師がメンバーのほぼすべてを占めていた「新型コロナウイルス感染症対策専門家会議」が、経済学者なども含む「新型コロナウイルス感染症対策分科会」へと衣替えしても、その実態は変わらない。

 この状況は世界とは対照的だ。今年1月、米ジョー・バイデン大統領が科学技術政策局局長(大統領科学顧問)に任命し、そのポストを閣僚級に格上げしたエリック・ランダーはその象徴と言えるだろう。ランダーはマサチューセッツ工科大学(MIT)とハーバード大学の教授を務めるゲノム研究の専門家だが、元は数学者である。高校時代には数学オリンピックに出場し、銀メダルを獲得しているし、プリンストン大学卒業後は、数学者として符号理論を研究している。その後、脳のシステム生物学の研究を経て、ゲノム研究者に転身した。

「シークエンス屋さん」を多数抱える欧米医薬企業

 バイデン大統領がランダーを科学技術政策のトップに据えたのは、最優先課題であるコロナ研究をリードするのが、ゲノム研究者たちだからだ。例えば、mRNAワクチンの開発に成功した独バイオンテック、米モデルナは、もとはがん治療ワクチンを開発するベンチャー企業だった。このような企業に集まる研究者の多くが、関係者の間では「シークエンス屋さん」と呼ばれる人たちだ。

 ゲノム研究がもっとも進んでいる領域として、がん研究が挙げられる。がんはゲノムの突然変異による病気だ。がん細胞のゲノムをシークエンスし、がん免疫反応を誘導しやすい変異を同定できれば、このような変異遺伝子が産生するたんぱく質や、その一部のペプチドを投与することでがん細胞に特異的な免疫の誘導が可能になる。このようながん免疫療法の研究が、近年、急速に進んでいる。

 この作業は、コロナのmRNAワクチンの開発と全く同じだ。2020年1月10日、中国の研究者たちがコロナのゲノム配列を公表すると、その3日後にはモデルナ社がmRNAワクチンの配列を決定し、基礎的検討に入れたのは、がんワクチンの開発で培ったノウハウがあったからだ。

 このような研究で中心的な役割を果たす「シークエンス屋さん」の本分は、シークエンスデータを解読し、有用な変異を同定するアルゴリズムの開発にある。膨大な情報処理が必要となるため、スパコンを利用することもある。この領域をリードするのは、「お医者さん」ではなく、数学的な素養をもった情報工学者なのだ。独バイオンテック、米モデルナは、このような人材を数多く抱えていたし、米国政府が任用したランダーは、このような研究者の代表といえる。最先端研究を連携発展させて対策に活用することが、彼に期待されている役割だろう。

 日本でゲノム医学の研究をリードするのは、東京大学医科学研究所のヒトゲノム解析センターだが、そのセンター長を務める井元清哉教授、および前任の宮野悟教授(現東京医科歯科大学特任教授)は、九州大学理学部の数学科を卒業している。大学時代の井元教授の専攻は多変数関数論、宮野特任教授は並列計算理論だ。

 数学理論の研究者を育成するための数学科と、臨床医を養成するための医学部では、求められる能力も、そのような集団が有する内在的な価値観も異なる。東京大学理学部数学科を卒業後、同大学理科3類に入学して内科医となった神田橋宏治氏は「学生の能力差がべらぼうに大きい数学科と、秀才揃いで、均質な学生が集う医学科は対照的な存在」という。教育は価値観を再生産する。「地位とは無関係に、美しく豊穣な理論が評価される数学科と、学生時代から医局の人間関係を垣間見る医学科」(神田橋氏)を卒業した人間では、社会人になったあとの振る舞いも変わってきて当然だ。

   これは研究の世界に限った話ではない。コロナ対策の成功モデルとされる台湾で、政府をリードするのは天才プログラマーのオードリー・タンだ。彼の活躍は政治の世界でも、数学的な合理的思考が求められていることを示唆している。

 我が国のコロナ対策の政策決定に関与した情報工学者としては、西浦博・京都大学教授(宮崎医科大学卒)の知名度が高いだろう。昨年4月の緊急事態宣言では、流行を抑制するには8割の接触削減が必要と提言した。このコロナ禍に対する西浦氏の真剣な取り組みを否定するつもりはない。ただ、「西浦教授が用いている旧来の集団モデルは、計算量が少なくて済むので簡便だが、個人の多様性や、緊急事態宣言などによる個人の行動変容、ワクチンの効果などを反映させるのが難しい。最近は社会変化を反映させることができるエージェントベースモデルという方法を用いるのが主流だ」(情報工学を専門とする大学教授)との指摘もある。

   医系技官が主導する厚労省のコロナ対策では、医学部出身以外の研究者は蚊帳の外に置かれている。こうした行政の歪みがコロナ対策そのものの歪みに繋がっていないか、マスメディアは冷静な視線を注ぐべきだ。

「精神論と政治の駆け引き」で“五輪なし崩し”は許されない

 世界では、このようなモデル研究を推進するのは数学者たちで、厚労省や専門家会議とは全く別の議論が進んでいる。例えば、昨年9月に公開され、その後、米『サイエンス』姉妹紙に掲載された「コロナ検査の感度は二の次で、検査の頻度と結果が戻るまでの時間が重要」というモデル研究を主導したコロラド大学のダニエル・ラレモアは、応用数学で学位を取得した数学者だ。この研究は、その後の米国政府の検査方針に大きく影響した。

 3月21日、福島県立医科大学の村上道夫准教授らのグループが、東京五輪の開会式の感染リスクを評価したシミュレーションモデルを発表した。この研究では、工夫次第で開会式の感染リスクを99%低下させることができるとされている。コロナ対策は精神論や政治の駆け引きではなく、科学的で合理的な対策が求められる。五輪開催へとなし崩し的に事を進めるのではなく、開催するというのであれば政府はこうした研究成果も踏まえながら、実効性のある具体策を採るべきだろう。

   この研究の特徴は、環境暴露モデルを利用したことだ。感染者からの咳や会話で飛散するウイルス量、環境中の動態、不活化や表面移動などのウイルス要因、およびソーシャルディスタンスや換気などの介入について、先行研究に基づいた仮定をおいて、感染リスクを推定した。膨大な計算を要する作業だ。

 村上准教授は、東京大学工学部都市工学科出身で、環境暴露モデルを用いた公害や水質汚染などの環境研究の専門家だ。福島県立医大では、放射能汚染を研究している。実は、この研究発表の最終著者は前出の井元教授だ。都市工学と数学の専門家の共同研究である。この研究にも坪倉正治・福島県立医科大学教授をはじめ数名の医師が参加しているが、彼らは筆頭あるいは第二著者ではなく、あくまで脇役だ。

   日本のコロナ研究でも、実は様々なバックグラウンドを有する研究者が有機的に連携している。特に、情報工学の専門家が中心的な役割を果たしているのは、情報化が進む世界で当然の帰結だとも言える。医系技官を中心に内輪の議論に終始する日本のコロナ対策は、早急に見直さねばならない。

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