続く飯舘村の戦い――震災から1年半

寺島英弥
執筆者:寺島英弥 2012年9月19日
エリア: 日本

 昨年3月11日の大震災発生から、早くも1年半が過ぎた。被災地の地元紙として終わることのない取材の日々の中で、筆者が通い続けている場所が、福島県飯舘村である。
 村の約6000人の住民は福島第1原発事故によって同年5月、全村挙げての避難を国から指示された。同15日、菅野典雄村長は村役場の前で、「飯舘の人はみんな、引っ越しなんかしたことがなかった。『計画的避難』という事態は思いもしなかったこと。先祖代々、この村に住み続けてきた皆さんにこういう引っ越しをさせねばならず、申し訳ありません」とあいさつした。誰もが未体験の避難生活を、今も続けている。
 飯舘村は、筆者の郷里・相馬市と同じ歴史を共有する地方の同胞の地であり、様々な人の縁もある。昨年9月から私が現地取材に通っているのは、村の東北端で、相馬市・伊達市と境を接している佐須地区。地元の農家と首都圏の研究者らが協働で除染実験などの活動を行なっている。

24時間のパトロール

 飯舘村は今、ゴーストタウンの状態と想像する人も多いかもしれない。だが現実には、住民有志約350人の「いいたて全村見守り隊」が行政区ごとのグループで24時間のパトロールを続け、「村の働く場を守りたい」と許可を得て残った地元の工場や、避難が困難だった特別養護老人ホームなど、9つの事業所が開いている。
 今年7月17日からは、国による計画的避難区域の見直しで、最も南の長泥地区は帰還困難区域(年間積算放射線量50ミリシーベルト超)とされて立ち入り禁止のバリケードが張られたが、残る19の地区は居住制限区域(同20-50ミリシーベルト)、避難指示解除準備区域(同20ミリシーベルト以下)に再編され、除染の結果によって帰村できる可能性が開けた。2つの区域では、住民の立ち入りも自由になった。佐須地区は、避難指示解除準備区域となっている。
 協働作業をしているのは、村農業委員会会長の菅野宗夫さん(61)ら住民と、NPO法人「ふくしま再生の会」(田尾陽一代表理事・約150人)。福島第1原発から放出され、風に乗って北西方向の飯舘村に降った放射性物質は、(原発に近い)南ほど濃い線量分布を描いて山野に染みこんだ。そこで、つくば市の研究機関の放射線専門家らが測定機器を持参し、車や徒歩による村内全域の線量マップづくり、家屋と田畑、山林の除染実験、作物へのセシウムの影響を調べる栽培実験などを毎週重ねてきた。河北新報の紙面でも継続的に紹介しているのは、農家にとって生活再生の生命線となる田んぼの除染実験だ。

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執筆者プロフィール
寺島英弥
寺島英弥 河北新報編集委員。1957年福島県生れ。早稲田大学法学部卒。東北の人と暮らし、文化、歴史などをテーマに連載や地域キャンペーン企画に長く携わる。「こころの伏流水 北の祈り」(新聞協会賞)、「オリザの環」(同)、「時よ語れ 東北の20世紀」など。フルブライト奨学生として2002-03年、米デューク大に留学。主著に『シビック・ジャーナリズムの挑戦 コミュニティとつながる米国の地方紙』(日本評論社)、『海よ里よ、いつの日に還る』(明石書店)。3.11以降、被災地における「人間」の記録を綴ったブログ「余震の中で新聞を作る」を更新中。
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